2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(70)船のカニ1

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谺 丈二 著

「社長、申し訳ないことになりました」

 牧下と秘書室長の戸田が社長室を尋ねたのは師走の午後だった。

「どうした、2人そろって」
「電子メールをご覧いただきたいのですが」

 井坂の問いを遮るように戸田が井坂のデスクに近寄り、パソコンを開いた。

 朱雀屋は数年前から、イントラによるメールシステムを備えていた。社員全員がID をもち、いつでもだれとでもメールを交換できるようになっていた。ただ、井坂は自分からそれを開くことはなく、井坂に関係するメールは秘書課長の戸田が開き、必要に応じてプリントして井坂に届けた。

「どうぞ」

 戸田に促されて井坂はメールを見た。

「なんだ? これは」

 画面を見て井坂が小さく声を挙げた。

「はい、社員全員に労働組合が発信しました」

非常事態宣言(指名団体交渉を決定)

 当社はもはや正常な経営軌道を外れています。その対策として、朱雀屋労働組合は緊急支部長会議を開催し、その討議の結果、牧下専務以下営業役員、ならびに役付き役員全員の経営責任を追及します。

朱雀屋労働組合中央執行委員長
朱雀屋労働組合連合会会長
大川 明

「何だ? これは」

 画面に目をやったまま井坂が再びつぶやいた。

「前例のない団交の申し入れです。第1回目は牧下・沖松両専務で、2回目が河田専務と常務3人の指名です」

 井坂は不快を隠さず、ふて腐れたように画面を見たまま言葉を発しなかった。

「もはや時が解決するという消極手段には頼れません。今は動かないことが悪と判断します。どんな結果になるかはわかりませんが、とにかく行動に出ます」

 組合の弱みを盾にした井坂の横柄な態度と先の見えない事態に、大川は、各支部長と組合本部の幹部を集めた臨時組合大会で自分の決断を訴えた。

「そうですね、経営には直接口を出さないのが組合の常識ですが、ことここに至っては、荒療治も仕方ないでしょう」

 大会終了後の組合三役と一部幹部の会議で大川のジャッジを島田は積極的に支持した。大方の幹部にも異論はなかった。

「決戦だ。どうせこのまま行っても先はない。トップを変えよう。まず2人の専務だ。我々がボードに上がらんとこの会社は危ない。今は動かないことが悪だ。どんな結果になるかはわからんが、とにかく行動だ」

 大川労連執行部はこれまで、幹部給与引き下げのための年棒制度の導入、退職金制度の改定、職位定年制。いずれも屈辱的な労働条件の変更を、雇用確保ということで受け入れてきた。だが今日までその効果はないも同然だった。あとは自分たちが強力に経営に口を出すしかない。組合は会社側に変則的な団体交渉を申し入れると同時に、社内にメールメッセージを送った。

第1回団体交渉の結果報告

出席者 牧下代表取締役専務 沖松代表取締役専務

「今の経営状態は一部上場企業にあるまじき状態です」

 代表権のある両専務に大川委員長は語気鋭く迫りました。『現経営陣は憂慮すべき問題からことごとく逃げている。だから社員はあなた方をまったく信用していない。こうして、我々があなた方に真剣に抗議しても、単なる組合による吊るし上げくらいにしか考えないだろう。我々はあなた方と話していて本当にむなしい』

 その後組合からのメールは数日おきに発信され続けた。

(つづく)

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