【クローズアップ】城下町・福岡における天守再建の意義 ~再建から始まる新しいお城の歴史~
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福岡商工会議所は昨年10月に発表した「福岡・博多の歴史文化を活かしたまちづくりに関する15の提言」のなかで、豊かな歴史と文化をもつ福岡市のランドマークとして、福岡城天守の復元を提言した。なぜランドマークとして福岡城の天守は相応しいのか。近世城下町として始まった福岡の性質と、他の都市で行われた天守再建の事例に触れて、その意義を考える。
福岡城と城下町・福岡は黒田長政・如水の「作品」
江戸時代のはじめ、戦乱の世が終わり、恩賞として領国を得た大名たちは、それまで培った土木技術とエネルギーを都市建設に注ぎ、全国に多くの城下町が誕生した。このときつくられた近世城下町は、大名の強大な権力を背景に、統一的な計画のもとで短期間のうちに建設された。整然とした町割りがある一方で、軍事的理由で街路を屈折させたり、武士や手工業者や商人を身分ごとに分けて集住させるなど、都市の機能を計画的に配置した。そのような城下町は計画者の作品ともいえる。
関ヶ原の合戦の勲功として、徳川家康から筑前国を与えられた黒田長政は、旧領の豊前国中津から国替えすると、那珂川の西の地に新たに城を築くことにした。当時、那珂川の東は豊臣秀吉によって復興された博多があったが、対岸の警固村福崎は寒村の荒地で、南の鴻巣山(中央区小笹・南区長丘周辺)から大休山(現在の動植物園周辺)を経て博多湾に伸びる丘陵があり、その西側には草ヶ江と呼ばれる入り江があった。
1601年、長政は自身の縄張(設計)により築城に着手。鴻巣山から伸びる丘陵の北端部分を残して、南の大休山との間を堀切で断ち切り、城郭の基礎をつくった。城の北は潟を埋めて城下町とし、西は草ヶ江の入り江を大堀につくりかえて、東には那珂川に通じる中堀と肥前掘を造成した。城は1607年に完成。地名は黒田氏の出自である備前国邑久郡福岡からとって「福岡」と改められた。このようにして城下町・福岡は、黒田長政・如水の作品として新たに建設された。
福岡城天守の謎 天守は実在したのか?
福岡城は平地のなかにある小高い丘を利用して建てられた平山城だ。平山城の天守は平地のなかでひときわ高いところに聳え立つので必然的に町のランドマークとなる。姫路城、熊本城、大阪城なども平山城だ。福岡城の天守は城下のさまざまな場所から見えるランドマークとなっていたはずだ。
江戸時代の経世家・佐藤信淵(1769~1850年)は著書『九州紀行』で、訪れた福岡と博多の町を次のように記している。「博多は古い港で名所旧跡が少なくない。(中略)福岡は慶長年間に始まった土地で、繁昌しているが名所旧跡がない」。福岡が江戸時代になって建設された城下町であることの認識がうかがえる。また、城についての印象も次のように記す。「城は平地で天守もないが、とても美麗雄壮で城の守りは堅く見える」。ランドマークの天守が見えないことに言及している。このときすでに福岡城に天守はなかった。その後、明治になると福岡城は終戦まで陸軍の連隊駐屯地となり、その間に城郭建造物の多くが失われた。
福岡城天守はそもそも実在していたのか? 1602年と推定される黒田長政の書状には次のような文章がある。「今月中に天守の柱立を行わなくてはならないのだから、そのように大工・奉行たちへ厳しく指示するように」。天守を建てる工事が進められており、柱を立てる段階まで進行していたことは間違いない。ところが、福岡の町を描いた一番古い絵図『正保福博惣図』(1646年)を見ると、城内の櫓などは細かく描かれているが、天守は描かれていない。よってこのときすでに天守がなかったことは確実だと考えられる。福岡城の天守が完成したかどうかはかねてより議論があったものの、実在を示す直接的な史料がなく、黒田家の正史『黒田家譜』にも天守についての記述がないことから、従来、天守は実在しなかったというのが通説とされた。
天守再建の嚆矢・大阪城 市と師団の再建交渉
福岡と同様に全国各地に発展した近世城下町は、明治になると城郭エリアが県庁や軍施設に移行することが多く、そのため開発の対象となり、江戸時代の歴史的建造物の多くが破壊された。しかし、その一方で、歴史ある建物が失われることを惜しむ住民たちによって、各地で保存活動が行われるようになった。国も1928年に姫路城を国史跡に指定したのを皮切りに城郭の保護に乗り出した。そのようななか、地方行政と市民が呼応して、失われた天守を町のシンボルとして復興する動きが現れた。その嚆矢となったのが大阪城だ。※1868年、明治政府によって「大坂」は「大阪」に改められたため、明治以前を大坂、明治以降を大阪と表記する。
大坂城は1585年に豊臣秀吉が築城した。縄張りは黒田孝高(如水)による。1615年、大坂夏の陣で豊臣氏滅亡により失われた。その後、1626年に江戸幕府が、石垣も堀もすべてつくり直し規模を大きくして再築。しかし、天守は1665年に落雷で焼失し、天守不在のまま明治を迎えた。
1928年、大阪市長・関一は、同年行われる昭和天皇の即位大礼の記念として天守再建を提唱した。明治以降、大阪城内は明治政府の軍隊が駐屯しており、本丸にある紀州御殿と呼ばれる建物を第4師団が司令部としていた。市と師団との交渉の結果、城内に新たに司令部を建設する費用を市側が負担することを条件として、天守再建と城内の一部を公園化することが認められた。
市民の寄付で費用を賄う 最新SRC造のコンクリ天守
天守再建は認められたものの、大阪市は天守だけでなく司令部の建設費用まで調達しなくてはならなくなった。そこで市は、費用をすべて市民からの寄付金によって賄うこととし、寄付を募るために大阪市民に対して、天守再建にはかつて大坂城を築城した豊臣秀吉を顕彰する意義があることを訴えた。江戸時代の大坂城は幕府の行政庁であり大阪の民衆には親しみのない存在だったが、一時は大坂を天下の都にした豊臣秀吉をダシにしたキャンペーンは、大阪市民の郷土愛を刺激して大きな反響を呼んだ。その結果、住友財閥総帥・住友友成の寄付金25万円を筆頭に下は10銭まで、7万8,000件超の募金が集まり、およそ半年で目標額の150万円(現在の12億円以上)に到達した。そのうち天守再建に47万円、司令部建設に80万円、城内一部の公園整備費用に23万円をあてて、いよいよ再建されることになった。
天守の喪失から長い時間が経ち史料も乏しく設計は難航したが、外観は福岡藩主黒田家に伝わる『大坂夏の陣図屏風』を基に豊臣時代の大坂城をモデルとしつつ、徳川時代風の白漆喰壁と豊臣時代風の装飾を折衷したデザインとなった。また復興を永久的なものにするため当時、最新工法だった鉄骨鉄筋コンクリート (SRC)造で建てることにした。施工は大林組。30年5月に着工。翌31年11月に竣工した。
大阪城内は駐屯地のままとされたため、公園として整備されたのは一部区域のみだったが、天守までの通路を師団から借りるかたちで一般公開された。天守内は郷土歴史資料館、最上階は展望台として開放され、後の全国の天守再建の手本となった。戦時中は市民の利用が禁止されたが、戦後、占領軍の接収から返還されると再び市民に開放された。また、戦時中、大阪城は空襲に遭い、残存していた江戸時代の櫓などが焼失したが、天守はコンクリート製であるため焼夷弾による焼失を免れた。
大阪城の天守再建は、市の行動力と市民の寄付によって実現したが、背景には戦時の事情もあった。当時は日本軍が中国東北部(満州)で軍事展開を拡大しようとしていた時期であり、天守再建を陸軍が認めた理由として、豊臣秀吉を大陸進出の先駆者として顕彰することで国威発揚のプロパガンダとして利用しようとした意図があったと考えられる。
そのような背景も含めて、大阪城天守は市民のお城として新しい歴史を刻んだ。ただし、再建された天守は、歴史上に実在した大坂城天守の忠実な復元ではない。豊臣時代をモデルとしつつもデザインは徳川時代の折衷で、しかも天守が建てられた徳川時代の天守台は豊臣時代と位置も大きさも異なり、天守も豊臣時代よりはるかに大きく建てられた。しかし天守は昭和の名建築であることに違いなく、城郭が1953年に国史跡指定、55年に特別史跡指定されたのを経て、天守が97年に国の登録有形文化財に指定された。
戦後の天守復興ブーム 天守再建のさまざまなかたち
戦前に再建された天守は、大阪城など数例にとどまるが、戦後50年代の半ばから、経済復興の象徴や観光資源を目的とした天守の復興ブームが巻き起こり、次々と天守が再建された。再建された天守は、再現状況や歴史上の天守実在の有無によって区別される。
外観復元天守 例:熊本城。九州を代表する名城、熊本城の天守は、西南戦争(1877年)の最中に焼失した。残された写真などを基に、外観を再現するかたちで1960年にRC造で復元された。内部の構造は復元されていないことから、外観復元天守と呼ばれる。
復興天守 例:小倉城。天守は江戸時代に焼失。歴史上実在した天守は入母屋ではなく破風もない層塔型天守であったと思われるが、見栄えを良くするために大入母屋で千鳥破風のある望楼型天守としてRC造で59年に建設された。天守は実在していたが外観も含めて忠実ではないため復興天守と呼ばれる。大阪城も同じ。
模擬天守 例:唐津城 天守台は往時のままだが、天守の実在を示す根拠がないまま建設されたため模擬天守と呼ばれる。66年、RC造。外観は安土桃山様式。2008年に始まった石垣再築事業では、石垣と模擬天守を守るために仮説トラスで天守を浮かせながら石垣の発掘調査が行われた。
天守再建の曲がり角 文化庁の厳格な基準
1968年、文化庁の設置により天守再建ブームは転機を迎える。文化庁は文化財保護行政を一元的に行う機関として設置され、文化財の指定と、自治体等がそれらを管理、修理、復元、買上げなどを行うための費用助成を一括管理するようになった。
【表】で見る通り、68年以降、外観復元と復興による天守再建はめっきり少なくなった。天守が再建されていない国史跡城郭は、福岡城や萩城なども含めて20城程あるが、同年以降再建は皆無となっている。大洲城の木造復元 建築基準法は適用除外
文化庁は、近世以降の歴史的建造物の復元について、設計図、絵図、模型、記録等の史料を基にして、実際に存在していた規模、構造、形式などを忠実に再現することが必要という厳しい姿勢を示した。その基準をクリアーした建造物のみ復元が行われるようになった。その1つが愛媛県大洲市の大洲城天守だ。天守は1888年まで現存したが老朽化で解体された。このとき解体を免れて住民らの活動で保存され、現在まで残った台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三ノ丸南隅櫓は国の重要文化財に指定されている。天守は明治時代に撮影された外観写真や、大洲藩の作事棟梁家に雛形模型が残存していたため、それらを基に外観から内部構造に至るまで忠実に木造復元された。竣工は2004年、計画開始から10年、総事業費は16億円、そのうち5億円が市民からの寄付金による。建築に際して、高さ19.15mは建築基準法では木造での建築が認められないが、大洲市が当時の建設省や愛媛県と2年近い折衝を行い、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められた経緯がある。現在、天守は一般公開のほか、民間に委託して日数限定のホテルとして運営されている。
福岡市の福岡城整備 復元から外れた天守
現在、福岡市によって進められている福岡城の整備事業は、2014年に福岡市が作成した国史跡福岡城跡整備基本計画のもとで進められている。事業期間は15年間、事業費は70億円が設定された。石垣の修理や、本丸南の武具櫓、裏御門、太鼓櫓、扇坂などの復元が計画され、将来的には花見櫓、表御門、本丸御殿も挙がっている。しかし、天守の復元はこの計画に含まれなかった。
福岡城跡は1957年に国史跡の指定を受けており、整備にあたっては文化庁の許可が必要だ。福岡城については文献史料、絵図、古写真などが多数残されている。福岡市は基本計画で、残された史料を基に各建造物の復元可否を検討したが、十分な史料のない天守は「復元が極めて困難」とされた。
福商が目指す天守復元 新基準「復元的整備」
では、なぜ今、福岡商工会議所は福岡城天守の復元を提言するのか。背景には2020年に文化庁が新しく定めた「復元的整備」という基準がある。復元的整備とは、史跡の利活用の観点から新たに設けられた基準で、「復元」よりも緩い基準となっており、実在していた歴史的建造物を忠実に再現するための史料が十分に揃わない場合でも、史料を多角的に検証して再現を認めるというものだ。ただし実在していたことが重要な要件になる。
福岡商工会議所が事務局を務める「福岡城天守の復元的整備を考える懇談会」は、3月に開催された第1回会合で、九州大学名誉教授の丸山雍成氏により、福岡城の天守が江戸時代の始めに短い期間、実在していた歴史学的な根拠を示した(これについては別記事で紹介している。記事末尾のQRコード(アドレス)から参照いただきたい)。
福岡商工会議所は、この根拠を基に天守の復元的整備実現に向けて、懇談会で深めた議論と市民参加のシンポジウムやアンケートなどを経て、秋ごろに報告書を福岡市長宛に提出する予定としている。報告書を受けた市長の判断と、その後の文化庁の判断が注目される。
まちづくりとしての天守再建 新しい福岡城の歴史の始まり
福岡城跡は国史跡であり、文化財保護のために文化庁の判断が尊重されることは重要なことだ。しかし、その一方で福岡城は、150万市民が暮らし、コロナ禍の影響がなければ年間2,000万人の観光客が訪れる福岡市の中心部にあって、都市機能としても、また景観としても重要な役割をはたす位置にある。
冒頭にも触れたように、福岡は福岡城の城下町としての建設に由来し、その延長線上に拡大発展してきた都市としての性格を色濃くもっている。その中枢にあって平山城の遺構として目立つ場所にある天守台一帯は、都市の性格上、ランドマークとして重要な機能をはたすことを想定して築城された。そして、先に長政の書状で示した通り、天守の建設が進められたこともたしかである。しかし、完成後かその前に破壊され、その後江戸時代を通して天守がなかったという事実は、幕藩体制下の政治的理由によるものだ。中央の幕府をはばかって空白の天守台にされた事実と、福岡の景観に本来あるべきものとして天守の建設が想定された事実と、福岡市民はどちらを尊重すべきだろうか?もし長政・如水が天守を完成させなかったとしても、現代はすでに江戸時代でも、軍によって接収され多くの歴史的建造物が失われた戦前でもない。今こそ市民が自らの判断で、まちづくりの一環として福岡城天守の再建を考えるべき時代になった。そして、福岡市は、そのような自らの由来である城下町・福岡の特質をよく理解して、市民を巻き込んだ福岡城の天守再建という議論に積極的に取り組むべきだ。
【寺村朋輝】
福岡城天守は「実在した」~懇談会で示された根拠と復元イメージ
情報誌『I・Bまちづくりvol.72』(5月末発刊)掲載。
「福岡城天守の復元的整備を考える懇談会」の第1,2回会合で示された、福岡城天守の実在の根拠と、天守の復元イメージについて紹介している。下記のリンクからご覧ください。
『福岡城天守は「実在した」 懇談会で示された根拠と復元イメージ(前)』法人名
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