【加藤縄文道14】吉野ケ里の石棺 ~ あやつこ(前)
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縄文アイヌ研究会主宰
澤田健一2023年春、吉野ケ里で首長層の墓とみられる石棺が発見されたとの報道があった。それを開けるというので何が出てくるのかワクワクしながら見ていた。
ところが、なかからは人骨も遺物も何も出てこなかった。これは吉野ケ里の最後の首長の石棺だと考えているが、そうであるならば、実は何も出てこないほうが正しいのだ。その理由は第4作となる『大和朝廷vs邪馬台国』のあとがきに書いた。
さて、今回はその石棺に刻みこまれていた「×」印について説明したい。テレビなどの報道を見ているかぎりではそれを「バッテン」と呼んでいた。誰もそれの正確な解説をされていないことを残念に思っていたのだが、これこそ日本古来の魔除けの信仰である「あやつこ」なのである。その印は出雲から大量に出土した銅剣や銅鐸にも印されている。
広辞苑では、
『あやっ‐こ【綾子】(×印のことで、魔除けのしるし)生まれた子を初めて宮参りさせるとき、額ひたいに鍋墨か紅かで魔除けとして「×」「犬」「大」などのしるしを書く風習。やすこ。』
と説明されている。「あやつこ」は古代史を読み解くためには必ず覚えておいていただきたい。ここから太古の重要な事実が浮かび上がってくるのである。柳田國男先生が考察された貴重な記録が残されているのでそれを下記にご紹介する。
▶方言覚書 - NDL Digital Collections
国会国立図書館デジタルコレクションのデータ記録であり、無料ダウンロードできるので、ぜひとも印刷してお手元に保管されることをお勧めする。
これの51ページから74ページが『阿也都古考』である。「阿也都古」で「あやつこ」と読む。ただし、ダウンロードしたデータを印刷する場合にはページ数が異なっており、「〇 範囲を指定」を選択してボックスに「34‐46」と入れると当該箇所が印刷できる。
「あやつこ」の「×」印は古代の日本民族にとって重要なシンボルであり、この後世界に広がっていくのだ。「あやつこ」の正式な起源、実際の発祥はもちろん確認はできないものの、正確な始まりは別としても古代日本の大切な信仰であることは間違いない。
まずは柳田國男先生の考察をじっくり堪能してみてほしい。
この53頁1行目から
「十年あまりも前から、家の子供がよく使うので耳に留まっていた居たのは、斜めにした十文字、すなわち×、こういう形の符号をバッテンということであった。東京の小学生は皆そう言っているが、おそらく教師が別に深い考えもなしに言い出したことであろう」この『阿也都古考』は昭和16年に書かれたものである。つまり「バッテン」という呼称は、昭和初期になって突然言い出された造語なのだ。大正以前の日本人はそんな呼び方をしていなかったのである。
では、それ以前は何と呼んでいたのであろうか?55頁5行目下の方から
「東北だけは確かに在来の日本語があって、これをヤスコと言っていたのである。青森岩手の二県の人ならば、誰でもまだ覚えているし、秋田にもその語を知っていた人があり、会津でも使うという話である」
とある。「×」の本来の呼び方は「ヤスコ」らしい。そしてその呼び方も、その意義も昭和期に失われていった。しかし、古代日本では「×」は重要な意味をもっており、海外へと伝わっていったのである。大野晋著『弥生文明と南インド』(岩波書店)63頁下から5行目からには
「また、加耶からはAD4-5世紀初頭と編年される縄文打捺円底短頸壺などに「×」「二」などの記号がある。(中略)中国の例は極めて僅少であり、これが日本の弥生時代の記号文を誕生させたということはできない。(中略)このように見る限り、日本の弥生時代の記号文は中国、朝鮮から伝来したものではない」
と書かれており、日本で誕生した「×」などの記号文が中国や朝鮮に伝わったのだ。(つづく)
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