小説『ジョージ君、アメリカへ行く』(20)スピーチ・コンテスト
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ジョージ君の英語力は自他ともに認める拙さである。それでも、アメリカにきた当初から、会話はできなくとも、意志の疎通はなんとなくできたように思える。
ホームステイをして半年、故郷の友人が訪ねてきた。熊沢勝利君、あだ名は「勝ちゃん」。中学校では野球部のエースで、高校もジョージ君と同じだったが、その後、彼は立教大学に進んだ。東京の友人の下宿で遊んでいるとき、「今からラジオの英会話講座があるから、失礼する」と帰ってしまうような、極めて真面目な友人であった。
その勝ちゃんがやってきた。サンフランシスコからストックトンまでは車で2時間の距離だが、彼はサンフランシスコ空港からストックトン空港まで飛行機でやってきた。当時はこんな近距離でもフライトがあった。
そのときの嬉しかったこと!故郷にいれば、同級生などそこら中にいる。アメリカの田舎にいると、日本人に会っただけでもうれしいのに、同郷の同級生となると、特別にうれしいのである。
勝ちゃんはミノルタ・カメラの輸出部で働いていた。まさに登り竜の勢いで成長していた日本経済のけん引力、輸出ビジネスの最前線で活躍していた。彼は、アメリカに留学をしたいという気持ちが強かった。
ジョージ君は早速、ホームステイ先のホスト・ファミリーに紹介した。主人のハイドン氏は輸出ビジネスで伊藤忠とつき合いがあったので、彼らはすぐに仲良くなった。
勝ちゃんは本当に英語がペラペラであった。毎晩、夕食時にホスト・ファミリーのみんなとディスカッションした。勝ちゃんとハイドン氏の英会話についていけず、ジョージ君は珍しく、聞き役に回らざるを得なかった。
部屋に戻って、ジョージ君は言った。「勝ちゃん、君のように長い間努力して、英語を勉強してきた人がアメリカに来るべきだった。俺はどうしてこんな無謀なことをしたのかわからない」。「ジョージ、君には勇気があったのだ。俺は長男だから、どうしても親の期待を裏切るわけにはいかなったんだ」と悔しそうに言った。
やがて、勝ちゃんは日本に帰っていった。ジョージ君はホスト・ファミリーに、いかに友人の英語がうまかったかを、自慢した。ところが、思いがけない返事があった。「たしかに彼の英語は完ぺきだった。でも典型的な日本語英語だ。“He just repeated what he had memorized, without heart.”覚えた英語を繰り返し話していただけで、ハート(心)がこもっていなかった」と言ったのである。これはとても参考になった。文法的に正しく話すことより、感情がこもっていることのほうが、コミュニケーションには大切なのだと、ジョージ君は知った。
アメリカ生活をしていて、もう1つ気づいたことがあった。ストックトンでは、留学生のためのパーティーが行われていた。教養のある豊かな人々が、世界各地から集まっていた留学生を招いて、年に2度ほどパーティーを開くのだ。200名以上集まる、盛大なパーティーであった。
そして留学生は1人ひとり、自己紹介やメッセージをスピーチする。ジョージ君は英語力以前に、自分にはスピーチで伝えたいメッセージがないことに気づいた。偏狭で、日本人根性まる出しのスピーチは、ここでは受け入れられない。日本のためや、日本人のため、というような国家意識は、この場の雰囲気には合わない。ジョージ君は自分を見つめて、日本のことしか考えられない、その精神意識を恥ずかしいと思った。
しかし思いきって言った。「英語を勉強して、日本と国際社会との友好に役立ちたい」それはハートのないスピーチ(without heart)だったに違いない。精神的成長、偏狭な日本人精神からの脱皮が、ジョージ君にも必要だったのである。
そこで、ジョージ君は英語スピーチのクラスをとることにした。先生はミセス・デボー女史。180cm近い身長にもかかわらず、ヒールの高い靴を履き、キャンパス内を大きなお尻をふって歩く。そのモンロー・ウォークが有名だった。黒くて大きな四角い縁の眼鏡に、赤や黄色など原色の靴や服、胸元からは白い肌のふくらみが、こぼれ落ちそうに見えていた。
男子学生は彼女の姿を羨望の眼差しで見ていた。ジョージ君は張りきっていた。しかし、まだまだ日本人意識が抜けきれていなかった。本当は『葉隠(はがくれ)』、武士道のスピーチをしたかったが、武士道は日本語でさえ、うまく説明できる自信がなかった。そこで、最初のスピーチは、「日本の浮世絵がいかに、ヨーロッパの絵描きに影響を与えたか?浮世絵は印象派の絵描きであるモネやマネ、そしてゴッホにも影響を与えたのだ」というような話をした。
東海道五十三次や役者絵を見せながらの、ジョージ君自慢のスピーチだった。しかし、日本では印象派の絵は好まれていたが、アメリカではあまり知られていないようであった。単純に浮世絵のスピーチはうけなかった。
次は短歌のスピーチをした。
「柔肌の、熱き血潮に、触れもみで、寂からずや、道を説く君」 与謝野晶子
「わが胸の、燃ゆる思いに、くらぶれば、煙はうすし、桜島山」 平野國臣平野國臣の歌は革命(維新)と女性への思慕を情熱的に歌っているものだと理解してもらえたが、与謝野晶子の歌はジョージ君の英語力が不足していたせいか、なかなか理解してもらえなかった。
「Without touching woman’s soft skin… 柔肌の~…」で始まるスピーチには、みんな混乱していた。なにしろ1970年代のアメリカは、すでにフリー・セックスの時代。容易に女性の肌に触れる文化であった。当時の日本文化は理解してもらえなかったようである。“柔肌”ではなく、“脂肪の塊”と表現すれば良かったのか?
スピーチクラスでは楽しみがあった。アンジェラと会えるからである。アンジェラは西ドイツからの留学生であった。彼女との出会いが、ジョージ君にとってのドイツ人のイメージを形成した。彼女は“金髪でブルーアイ”。ジョージ君がイメージしていた白人そのままの容姿をもっていた。
ジョージ君が浮世絵スピーチのとき、歌麿の話をしたことから会話をするようになった。次のスピーチは「万事塞翁が馬」、中国の故事について話した。日本は第二次世界大戦で敗戦したことで、平和な国になり、経済も繁栄し、若者も軍務につくことはなくなった。逆にアメリカは、勝ったことにより、朝鮮戦争で大きな犠牲を払い、ベトナムでも多くの若者が死に、傷ついた。
人生は何が幸いするかわからない。このスピーチは当時のアメリカの時代背景や、ベトナムからの撤退と相まって、非常にうけた。そして、クラス代表としてスピーチ・コンテストに出ることになってしまった。
外国人のための英語スピーチ・コンテストではない。アメリカ人学生のなかにまじって、アメリカにきて1年もたたないジョージ君がなんと、優秀賞をもらった。最優秀賞はもちろんアメリカ人だったが、優秀賞6名のなかに、もう1人外国人がいた。滞米10年目の中国人であった。一見、快挙ではあるが、賞を取ったからといって、その後もジョージ君の英語力の拙さには変わりない。
スピーチは、ジョージ君の社会経験の豊富さが説得力をもっていたようである。ハートで勝負をする。それが外国人とのコミュニケーションの最善の方法であることを実践した。ハートで話す英語は、その後のジョージ君のアメリカ生活においても、大いに役立った。
(つづく)
【浅野秀二】
<プロフィール>
浅野秀二(あさの・しゅうじ)
立命館大学卒業。千代田生命保険相互会社(現・ジブラルタ生命保険株式会社)、JACエンタープライズ(米サンフランシスコ)で勤務。関連キーワード
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