『脊振の自然に魅せられて』「ぶらぶらあぶらクラブの子どもたちと脊振山歩き」(中)
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標高約900mの場所にある駐車場から航空自衛隊基地フェンス横の登山道を登るにつれ、展望が広がっていった。
子どもたちの弾んだ声で賑やかだ。振り返ると右手に佐賀県の天山(1,046m)、長崎県の雲山岳(1,483m)が遠くにかすんで見え、その手前に広い筑後川の水面が陽光に照らされて輝いていた。
左手に宝満山(830m)、遠くに英彦山(1,200m)がかすんで見えていた。5分も歩くとコンクリートの登山道から石段の急な登りとなる。石段は石工が切り出したのみの後が残っている。古い石灯籠が左右に並び、正面にある古びた石鳥居をくぐると脊振神社の大きな石の祠が目の前に現れる。その5m先が脊振山頂である。
周りにある多数の石囲いは傾いており、歴史を感じさせる。石囲いの手前に「脊振山」と筆者が記毫した道標がある。
設置時に森林管理署から測量してもらい「ここだと大丈夫だ」と太鼓判をもらった。設置には早良区役所企画課の女性2名、脊振の自然を愛する会と後輩の西南学院大学ワンダーフォーゲル部の学生2名、それに伊都遊歩道クラブの総勢15名が設置に協力してくれた。11年前のことである。
道標の周りにはアザミの花が咲き、草が生い茂っていた。筆者は参加者に「まずボルトを外します」と伝えた。直径17ミリのボルト6本で固定している。ラチェット(専用工具)でボルトを外しにかかると、子どもたちが「手伝わせてください」と寄ってきた。使い方を教え、ボルト6本を順次取り外していった。外れ板を地表に置き、タワシで汚れを拭った。外したボルトは、いずれも錆だらけであった。
購入した文字専用の黒塗料の蓋を開け、文字入れを子どもたちに手伝ってもらった。筆を手に四方から塗料を塗る。子どもたちは筆順に関係なく文字の反対側からも塗料を塗っていた。2本の支柱に防腐剤の柿渋を塗る。これは会員女性2人が行った。
子どもたちは、道標下の1,055mの白文字も器用に筆を使い塗っていた。文字の細かいところは筆者が仕上げた。
文字の修復が完成し、新しいボルトで取り受け作業を始める。これも子どもたちが手伝った。取り付けが完成して脊振山の黒文字が生き返った。メモ紙に「ペンキ塗り立て」と書き込んでテープで板に貼り付けた。
作業が終わり、道標の前に全員集合して記念撮影を行った後、山頂を下った。今から行く気象レーダーが近くに見えていた。
駐車場に戻った。緩い坂を下るとオートキャンプ場である。野球ができるほどの広さのキャンプ場には草が生え、「緑の広場」になっていた。利用者のマナーもよく、ゴミはすべて持ち帰っている。心配していたタイヤの跡もついていない。
この奥に10m四方の池がある。春から夏にはカエルの鳴き声が響きわたり、オタマジャクシやイモリもいる池である。昆虫に興味のある子どもたちは池のなかをうかがっていた。深さ50㎝ほどの池は緑の藻で覆われていた。春から夏にいるカエルやイモリの姿はなく、静かな池であった。春は対岸にヤブデマリが純白な花を枝いっぱいに咲かせる。
池の土手をヨメナの薄紫の花が咲いていた。ここはマクロ写真の撮影で何度も来た場所である。早朝や雨上がりは花に露を付けてきれいである。筆者にとって素敵な撮影場所でもある。
広場の端からブナ林の木道に入る。参加者に「脊振はブナの多い山地で、5月から6月は白い花の樹木と共生しています」と説明した。
とくに霧のなかで林立するブナに筆者は魅了される。幻想的な光景を見せてくれるからである。ここから200mほど木道歩きが続く。古い木道は傷んで湿気もあるので「滑らないように」と後方の子どもたちに声をかけた。
木道の一部は2年前の豪雨により幅30m、長さ100mほど崩落したままである。崩落箇所が多いので、まだ修復されていない。航空自衛隊が使用する自動車道が優先的に修復されている。
(つづく)
脊振の自然を愛する会
代表 池田友行関連キーワード
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