2024年12月22日( 日 )

【加藤縄文道24】北部九州周遊記

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縄文アイヌ研究会
主宰 澤田健一 氏

 前回の縄文ツアーに参加された(株)データ・マックスの児玉会長から会社創立30周年の記念祝賀会への案内を受け、11月7日に行われた盛大なイベントに参加した。その際、小旅行をしてきたので簡単に報告させていただく。

 8日、藤の尾垣添遺跡、車塚、権現塚、吉野ヶ里。ここが邪馬台国滅亡に至る重要な地域である。今回は結論だけ記すが藤の尾垣添遺跡こそが邪馬台国である。今みやま市役所が建っており、今も昔もこの地域一帯の政治の中心となっている。

 ここの広い一帯が日本書紀の記す「山門県」(やまとのあがた)であり、それが魏志倭人伝の記す「邪馬台国」(やまとこく)である。現在は福岡県みやま市瀬高町となっているが古くは山門郡瀬高町という。つまり明治以降の地名でも「やまと」と呼ばれていたのである。

 一帯には住宅や田畑が広がっており発掘することができない。ただし九州新幹線を建設する際、線路沿いに狭い溝のような部分だけ発掘を行い、弥生時代後期後半から終末期の住居跡が80件以上発見された。この遺跡がどのくらい広がるのか不明だが、一大集落の一角を掘り当てたのだ。しかも邪馬台国が滅亡してすぐ集落も終焉を迎えている。

 山門県の最後の主は日本書紀によると田油津媛(たぶらつひめ)という女王であり、おそらく卑弥呼の子孫なのであろう。この田油津媛に最後のとどめを刺したのが神功皇后軍である。そのとき朝廷軍が布陣した陣の前面には神功皇后の車が置かれた。そこがいま車塚と呼ばれていて、その場所は九州新幹線のすぐ近くなのである。山門県に立てこもる田油津媛の目の前に陣を敷いて朝廷軍の威を誇示した姿が目に浮かび上がってくる。

 そこから徒歩で20分もかからない場所にある権現塚は卑弥呼の墓であると言い伝えられている。魏志の記す通りの円墳であるが、記述よりは一回り小さい。魏の使者は実際には邪馬台国まで行っていないし、従って卑弥呼にも会っていないし権現塚も見ていないのである。そして魏の使者は倭人から墓の大きさを少し大きめに伝えられ、邪馬台国までの行程は大幅に長く伝えられた。それをそのまま書き記したことで邪馬台国の位置論争へとつながっている。いずれ藤の尾垣添遺跡か権現塚どちらかで魏から贈られた銅鏡百枚と「親魏倭王」の金印が出土するであろう。早期の発掘調査が望まれる。

左:藤の尾垣添遺跡(みやま市役所)/中:車塚/右:権現塚

 午後から吉野ヶ里を廻ったが、ここはまさに巨大な要塞である。広い平野のなかでここだけ小高い丘となっていて周囲を一望できる。北から攻めてくる外敵をここで防ぐための要塞である。

 ここの最期の王を夏羽(なつは)といい、前出の田油津媛の兄である。当然、妹である山門県の女王を守るために臨戦態勢を整えていた。朝廷軍は北から攻めてくるはずなのだ。ところが神功皇后の軍は吉野ヶ里を迂回して南から山門県を攻め滅ぼした。すでに田油津媛が死んだことを知ると夏羽は戦わずして逃げたと日本書紀に記されている。数カ月前に吉野ヶ里晩期の石棺を開けたが空だったというニュースを覚えているだろうか。その石棺が夏羽のものであると考えると空が正解である。被葬者が逃げてしまったので何も入れずに閉じたのだろう。

吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里遺跡

 9日、山口県田布施町とその周辺まで遠征。前方後円墳をいくつか見て廻った。瀬戸内海に面する高地に築かれた大きな前方後円墳は大陸から訪れる使者の船からよく見える。大和朝廷が山門県(邪馬台国)を滅ぼして日本再統一をほぼ完成させた後、日本全国に朝廷支配のシンボルとして約4,700基もの前方後円墳を築いた。そのなかでも100mを超えるような大型のものは瀬戸内海航路からよく見える場所に数多い。

 畿内に上陸した後は朝廷へ向かう陸路から見える場所(百舌鳥古墳群)に並ぶが、それらの巨大古墳を大陸の使者に誇示していたのであろう。初めて見る巨大な構築物に目を奪われたに違いない。現代の我々が見ても実に壮観である。

茶臼山古墳
茶臼山古墳

 10日、伊都国歴史博物館、福岡市博物館、香椎宮。大和朝廷と対立していた邪馬台国連合であるが、朝廷が遠くの畿内へと拠点を移してからは、北部九州は邪馬台国の独壇場となり、前漢・後漢との交流を独占していた。そのころは伊都国が連合国の外交窓口だった。福岡市博物館あたりが西新町遺跡であり、邪馬台国滅亡まで外交貿易港として賑わった。

香椎宮に仲哀天皇の本陣が置かれていた
香椎宮に仲哀天皇の
本陣が置かれていた

    香椎宮は仲哀天皇と神功皇后が布陣した地である。仲哀天皇は熊襲征伐に失敗した後、ここで突然病を発してすぐに崩御する。その後、神功皇后が朝廷軍の指揮を執ることになる。

 10日夜から11日、長崎県北松浦郡の小値賀島にある王位石(おえいし)。山腹に忽然と姿を現す巨石遺構である。白い岩肌が威容を誇るのだが、残念ながら朝まで雨が降ったため岩に雨水がしみ込んで黒ずんでいた。もう一度訪れてみたい。島にはこの他にも大きな岩があるのだが、すべて斜めになっていて、直立しているのは王位石だけであり、しかもそのうえに巨大な蓋石が乗っている。私個人の見解ではあるが明かに人工物である。

左:船から見た王位石
右:本来ならこのような白い岩肌(©おぢかアイランドツーリズム)
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