傲慢経営者列伝(14)日枝久、クーデターでフジテレビ独裁権を奪取した男(3)
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火に油を注ぐとは、このことだ。元タレントの中居正広が起こした女性トラブルは、初期消火に失敗し大炎上、スポンサー離れを引き起こしフジテレビの経営危機を招いた。その過程で浮かび上がったのは特異な企業体質。創業家でもオーナー家でもない一介のサラリーマン経営者が長期にわたってフジテレビを支配してきたことだ。(文中の敬称略)
婿養子の鹿内宏明がグループ総帥につく
鹿内(旧姓・佐藤)宏明は45年5月、東京都で医者の家に生まれた。春雄とは同年同月の生まれ。東京大学法学部を卒業後、日本興業銀行(現・みずほ銀行)に入行。メルボルン事務所長や国際資金部企画課長を歴任するなど、エリートコースをひた走った。
72年、宏明は信隆の次女の厚子と見合い結婚した。信隆にとって宏明は、春雄に代わる「スペアキー」だった。春雄が急逝したため、信隆はたたちに宏明と養子縁組をした。
佐藤姓から鹿内姓に改めた宏明は興銀を辞め、88年4月にフジサンケイグループ会議議長代行となった。グループ内の雰囲気は異邦人を迎えるようなものだったという。
信隆が宏明に期待したのは、銀行マンの経験を生かしたM&A(合併・買収)でグループを大きくすることだった。メディアに通じている必要は、まったくなかった。
90年10月28日、後見役の鹿内信隆が死去した。享年78歳。宏明は議長を引き継いだ。44歳にしてグループ総帥の椅子に座ったが、ここから宏明の人生は暗転する。
宏明は春雄が進めた自由闊達な社風に否定的だった。宏明は、信隆のように、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、レコード会社、美術館など、約100社を抱える巨大なメディアグループの「専制君主」になろうとした。宏明は自前の支配体制の確立を目指す。
最高意思決定機関、フジサンケイグループ本社を設立
91年2月にグループの最高意思決定機関であるフジサンケイグループ本社を設立した。鹿内家とグループの美術館である(財)彫刻の森美術館が47.3%、ニッポン放送が15.4%を出資した。
宏明は会長兼社長に就くとともに、グループの主要4社、ニッポン放送、フジテレビジョン、産経新聞社、サンケイビルの会長職を兼務した。そして4社の社長をグループ本社の役員に据え、宏明がグループのトップとして、グループ各社の社長に命令を出すという構図をつくり上げた。
会長在任中の宏明は信隆以上のワンマンぶりを誇示した。「宏明が出社すると、彼の乗るエレベーター以外のエレベーターがすべて停止する」というマンガみたいな逸話が語られた。
フジサンケイグループの役員たちは、「宏明によるグループの私物化」と猛反発した。批判の嵐のなかで、宏明は先制攻撃をかけた。92年6月、反宏明の急先鋒だった波佐間重彰・ニッポン放送社長を産経新聞社長に追いやった。鹿内一族の本丸であるニッポン放送は、宏明派3人組でがっちり固めた。まず、持株会社にあたるニッポン放送を押さえた。
産経新聞社のクーデター劇
フジサンケイグループに君臨し続けてきた鹿内家の同族支配は、クーデターでピリオドが打たれた。
1992年7月21日午後1時、東京・大手町の産業経済新聞社(以下、産経新聞社)本社9階役員会議室で定例取締役会が始まった。会長の鹿内宏明、社長の波佐間重彰以下取締役20人が、全員出席した。
この日の議事は株の譲渡などの承認事案が4~5件。これは難なく承認され、次に移ろうとした瞬間だった。『週刊文春』(92年8月6日号)は、こう報じた。
〈役員会の議長を務めた宏明氏が「それでは次の議題を」と言ったとき、「議長!」と大阪代表の澤昭義専務が声をかけた。
「どうぞ」(宏明氏)
「緊急動議があります。鹿内宏明代表取締役会長は、産経新聞社の会長には不適格と思われますので、解任決議を提案します」「そんなの議題にない。あらかじめ議題にないものはダメだ。商法に規定してある」
と反論する宏明氏に
「商法二百六十条で認められています」(澤氏)
「後日の定例役員会で、その話をしよう」
と粘る宏明氏の声に被せるように、
「すでに直接利害人なので、この場の役員会の議長は波佐間さんに」
とサンケイスポーツ代表の近藤俊一郎専務が提案。波佐間氏が「ただ今より私が議長をつとめさせていただきます」とした後、「早速、採決に入ります。秘書室長、出席取締役の数を」というと、「全員出ているよ」という野次まで。
宏明氏は薄笑いを浮かべながら、「こんな強引な発言は認められない」と抵抗したが、波佐間氏は、「これは商法で決められたことですので違法ではございません」とキッパリ宣言。
「鹿内宏明氏の代表取締役会長の解任に賛成の方はご起立を」(波佐間氏)
の声に、16名の反対派役員は同時に立ち上がった。このときに、オブザーバーに過ぎない監査役のうちの1人が思わず立ち上がったが、「監査役に議決権はない」と注意され、引き下がる珍事まであった。「では、反対の方のご起立をお願いします」の声に応えたのは、わずか3人だった。3人が着席すると、
「採決されました。散会します」
とあっけなく終わった。その間約7分。解任決議がなされると、役員は別室で議事録にサインするが、宏明氏は閉会後もしばらく立つことができずに、じっとしていたという。〉
鹿内宏明は4日間で6つのポストを失った。産業経済新聞社での会長職の解任に続いて、ニッポン放送、フジテレビジョン、サンケイビルの会長職とグループ総帥としてのフジサンケイグループ会議議長を辞任。グループの最高意思決定機関であるフジサンケイコーポレーション(グループ本社)の会長兼社長を辞任した。長く続いた鹿内家の経営支配は終焉した。後ろ盾となっていた財界からも見放されて孤立無援。専制君主になろうとした鹿内家のムコ殿は、“裸の王様”だった。
(つづく)
【森村和男】
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