傲慢経営者列伝(14)日枝久、クーデターでフジテレビ独裁権を奪取した男(4)
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火に油を注ぐとは、このことだ。元タレントの中居正広が起こした女性トラブルは、初期消火に失敗し大炎上、スポンサー離れを引き起こしフジテレビの経営危機を招いた。その過程で浮かび上がったのは特異な企業体質。創業家でもオーナー家でもない一介のサラリーマン経営者が長期にわたってフジテレビを支配してきたことだ。(文中の敬称略)
クーデターの首謀者、日枝久
宏明追い落としのクーデターの首謀者は、フジテレビジョン社長の日枝久である。日枝は37年12月31日、東京都に生まれた。61年、早稲田大学教育学部を卒業し、フジテレビジョンに入社。70年には、日枝などが旗揚げした労働組合を潰すために、鹿内信隆が番組制作部門をフジテレビから切り離した。組合書記長だった日枝は営業に出され、左遷の憂き目に遭った。
日枝を抜擢したのは鹿内春雄である。父の反対を押し切り電通の協力を得て機構改革を断行。外部委託にしていた制作部門を、左遷された社員とともにフジテレビ本体の編成局に戻し、編成主導の番組制作に変えた。
80年にフジテレビの副社長に就いた春雄は、営業部長だった42歳の日枝を編成局長に起用。春雄の下で、日枝は取締役、常務とトントン拍子で昇進、春雄が亡くなった88年、フジテレビの社長に昇格した。
フジテレビは春雄=日枝時代の82年、視聴率三冠王を初めて獲得。以後93年まで12年間にわたって三冠王として君臨した。
信隆は春雄の女子アナをアイドル化する「軽チャー路線」に危機感を抱き、銀行マンらしい堅実な発想をする素人の宏明のほうを信頼していた。春雄は生前、宏明を「おやじにまとわりつく金魚のフンみたいなヤツだ」とあからさまに嫌っていたという。
宏明が軽チャー路線に染まった日枝らと肌が合うわけがない。宏明は、ウルサ型の波佐間をニッポン放送から産経新聞社に飛ばしたのに続いて、フジテレビの実力者である日枝のクビを取ることにした。切るか、切られるか。日枝らクーデター派は切られる前に、宏明の首を取ったのである。
超大物財界人、中山素平のツルの一声
クーデターが成功した背後には、財界の意向があった。「オールジャパン」でつくったフジサンケイグループを鹿内信隆が乗っ取ったことは、事後承認のかたちでしぶしぶ認めたが、公的な電波を扱うテレビ局を、鹿内一族が世襲していることについては、苦々しく思っていた。
宏明が自分の持ち株を増やす手段として、取り分を増やすため、信隆の退職金をお手盛りした問題で、財界長老たちの心証を決定的に悪くした。クーデター派のメンバーが、こう語っている。
〈成功した最大の決め手は、ある財界大物のツルの一声さ。
「宏明君はマスコミには向かん。番頭が力を合わせ、鹿内家とグループを盛り立てていけ」との一言で英子さん(信隆未亡人)は踏ん切りがつき、むしろ積極的に株主への根回しに動き出したし、宏明氏側近の切り崩しにも成功したんだ。宏明氏が気づいたときには、すでに遅し。あわてて、親しい平岩外四・経団連会長に相談に行ったけど、逆に「じたばたみっともないマネをするな」と諭された。クーデター派の完勝だった〉
(『サンデー毎日』92年8月9日号)財界大物とは、齢80歳を超えた日本興業銀行相談役の中山素平である。
あの手、この手の宏明排除対策
フジサンケイグループから追放された鹿内宏明はグループ経営陣の一掃と、自らの復権に執念を燃やした。ニッポン放送の大株主として、ニッポン放送の支配権を取り戻し、それを足がかりとしてフジテレビへのトップへの返り咲きを狙った。
宏明がニッポン放送で復権するようなことになれば、逆に日枝や波佐間のクビが飛ぶ。日枝らグループの経営首脳は対宏明対策に力を注いだ。
96年にニッポン放送を、97年にフジテレビを相次いで上場させた。大株主である宏明の持ち株比率を落として影響力を封じ込めるための株式公開であった。上場した結果、ニッポン放送が保有するフジテレビ株の比率は3分の1に低下、さらに宏明のニッポン放送株の保有比率は10%を割り込んだ。
日枝は宏明排除の追及の手を緩めなかった。2004年、ニッポン放送はフジテレビと共同で貸しスタジオつくるための原資としてフジテレビ株式を売却した。その結果、ニッポン放送のフジテレビ株の持ち株比率は32.2%から22.5%と4分の1以下になった。
宏明の復権の芽を断ち切り、グループ内で唯一意のままにならないニッポン放送を完全支配して、経営をコントロールするという日枝のシナリオは着々と進んだ。
宏明との抗争に決着がつくのは05年である。復権を断念した宏明は同年1月、保有していたニッポン放送株(発行済み株式の約8%)を大和証券SMBC(のちの大和証券キャピタル・マーケッツ)に売却した。
これによりフジサンケイグループと鹿内家との関係は完全に切れた。宏明はロンドンに生活の拠点を移した。
ライブドアとの抗争を経て、
ニッポン放送を完全子会社化それでも、ニッポン放送がフジテレビの親会社であるという資本のねじれが完全に解消されたわけではなかった。このねじれを突いて、ニッポン放送=フジテレビの乗っ取りを仕掛けたのが、「ホリエモン」こと堀江貴文が率いるライブドアだった。
「劇場型乗っ取り」として社会現象になったこの騒動は、05年4月にフジテレビがライブドアの保有するニッポン放送株をすべて買い取って子会社化するとともに、ライブドアに資本参加することで両社は和解した。
フジテレビはライブドアに解決一時金として1,447億円支払った。その見返りに、最大の弱点となっていたニッポン放送がフジテレビの親会社というねじれを解消した。05年9月、フジテレビは「お家騒動」の火薬庫となっていたニッポン放送の完全子会社化を完了した。
鹿内宏明やライブドアの堀江貴文との激烈な抗争を闘い抜いた日枝久はフジサンケイグループのドンとして、現在に至るまで君臨することになる。
鹿内一族が末永く君臨するために築き上げた仕組みは、非上場のグループ統括会社を通して、上場会社のグループ人事を采配するというものだった。鹿内家は、その果実を口にできなかった。日枝久が、その仕組みを簒奪して、長きにわたってフジサンケイグループを支配する「独裁者」になったのである。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。フジテレビは昔日の輝きを取り戻すに至らなかった。
(了)
【森村和男】
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