【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(23)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。

市長室経営補佐部長

 広太郎さんが無事に再選を勝ち取り、二期目公約の1つの目玉であり、DNA改革のセカンドステージの象徴でもあった経営会議の設置と経営補佐体制の制度設計の詰めの作業が進んでいたが、新設される経営補佐部長(おそらく全国的にもこのようなポストは存在していなかっただろう)は誰かとの話が持ち上がってきた。僕には腹案があったのだが、その人は外せないということで、別の案が伝えられ、まったくの想定外で僕はへそを曲げてしまった。これが間違いの元、そんならあんたがやったらとも言われるが、受けられるはずもなく、人事構想はデッドロックに乗り上げてしまった。そのうち、渡部総務企画局長の「一番事情がわかっている吉村が引き受けるべきで、引き受けないというのはワガママだ」との発言が耳に入ってきた。僕は腹をくくるしかなかった。

 辞令交付式は局部長が一緒で、市長室経営補佐部長は部長級の一番、名前を呼ばれて登壇するとき、会場のみんなの目が背中に突き刺さるような思いがしていたことを思い出す。市長から辞令を渡され、「よろしく頼む」と言われて、ようやく腹が据わった気がする。経営補佐部は担当参与(局長級)に医療職だった荒瀬泰子さんが南区保健福祉センター長から(現副市長)、その下に、部長1人、課長が2人、係長3人、職員2名、計9人でスタートした(広義の補佐体制としては、+部長3人、課長6人に兼任辞令)。

 まずは市長室のリニューアルの突貫工事。助役が1名減で、助役の分担規定も外したので、助役室を行き来しやすい構造に変え、空いたスペースに参与以下の経営補佐部が陣取った。経営補佐部長の椅子に座ってどんな想いが去来していただろうか?まず最初にスタッフ全員に、沼上幹著『組織戦略の考え方~企業経営の健全性のために』ちくま新書(2003)を配った。近著のお気に入りで、自分の組織にどのようにアプローチしていくか、自分なりの戦略、自分で考え、自分で担っていくという主体性が強調されていて、経営補佐部のミッションに照らしピッタリだと思っていた。

 経営補佐部の第一義の役割は、経営会議の事務局機能(議題の設定と論点の整理)である。言葉にすれば簡単だけど、僕にとってはとんでもなく重たい荷物だった。経営会議や経営補佐体制については第2章で詳述するが、何が大変だったかといえば、まずはその居心地の悪さだったろう。選考採用とは言え、いわば、あてがい扶持のように係長職で出戻り、1年で課長職、3年で部長職、しかも各局の生殺与奪の権を持つような前人未踏の役回り、失敗するわけにはいかないと、否が応でもバリバリ肩に力が入っていた。

 職務として、何が大変だったか?経営補佐部の第一義的な役割は、「議題の設定と論点の整理」である。経営会議への付議を予定する案件は、あらかじめリストアップされ、大まかに年間スケジュール的なものは作成していたが、「縦割り構造や事前調整文化の弊害を克服し、全市的観点からの意思決定を的確に行おう」とすると、議題に挙げるタイミングはトップと現場の局区では、得てして思惑に食い違いが生じる。場合によってはお白洲に引きずり出すような局面もある。その場合の引きずり出し役は経営補佐部になる。

 さらに手強いのは論点の整理だった。付議案件の総括シートには、「決定すべき内容、決定のタイムリミット、所管局の方針案、問題点、関係局の意見」の外に、経営補佐部が「論点」を整理し付議することになっていた。当然、論点整理の的確性は経営会議の決定の質に直結するので、補佐体制としては最も大切な仕事だと言っていい。しかし、議題の所管局区にとって課題とか問題点は書くことは当然のこととしても、他者に「論点」を設定されるというのは、そもそも経験がないし、面白くない。そして往々にして鋭い論点であればあるほど、本来触れられたくないものが多い。目的があって、課題があって、ようやく解決策を見つけて、決めてほしいのに、まさに局外者から論点なんか出されてひっくり返されれば、元も子もなくなる。しかも三役からならともかく、いわば同輩、後輩から弾が飛んでくるのだからたまらない。しかし、論点がなければ経営会議は追認機関にしかならない一方で、案件への的確な理解がないと論点など設定できない。なので、メンバーには論点の深掘りを求め、僕が怒るのは決まって論点の掘り下げが足りないという点だったらしい。そして、深掘りすればするほど、提案した通りに決めてほしい所管局区との軋轢は大きくなる。結局、僕はその隙間に嵌まって、身動きが取れなくなっていったのかなと思う。

挫折~長期入院

 再びの市役所入りから4年半、ずっと働きづくめで僕は心身ともにホトホト疲れてしまっていた。毎週ごとの経営会議開催のプレッシャーは凄まじく、経営会議の日は、8時、7時半、7時と、出勤時間がどんどん早くなってしまっていた。夜の帰りも遅いのに、朝目が覚めて、自宅でじっとしていられなかった。職場もピリピリしていたらしい。僕が覚えているのは、当時係長の下川祥二君(現水道事業管理者/元市民局長)※から「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか!」と言われてハッとしたこと。一番気心が知れていて、彼の人柄に随分救われてきていたのに、そんな言葉を発させてしまって、他のメンバーはそれすら口にすることもできなかっただろうに。

 ※下川君とは不思議な縁があった。僕が失業して専業の大学院生の折(平成9年/1997)、九州大学大学院と福岡市職員との共同研究があり、彼が同じグループに割り当てられてきた。もちろん当時は初対面。後年聞いてみると、職場に帰って、吉村っていうのがいると言ったら、上司から「あの人は危ないから、あんまり付き合わんほうがいい」と言われていたらしい。その下川君と、3年後の平成12年(2000)4月、市長室行政経営推進担当でのDNA改革で相まみえることとなった。僕はただ懐かしかったが、下川君の驚愕は想像に難くない。

 9月は敬老の日と秋分の日があって、2週間近く休んでも傷が浅いので、短期の入院をして休みたいと医療職だった荒瀬参与に相談し、心療内科を紹介してもらって受診した。診察券には初診平成15年9月11日とある。クリニックの院長に診ていただき、西区今津の川添記念病院に入院させていただくことができた。海沿いの静かで景色のきれいなところだった。当時のことはあまりよく覚えてはいないのだけど、とにかく腰痛も酷かったので、投薬以外の整体的な治療もお願いした。ほどなくして担当医から、かなり症状が重いので、入院は短期では済まないと宣告された。診断名はたしか「感情障害」だったと思う。抗うつ剤が投与されると、極端に「躁」に振れた。

 長期入院で腹が決まって外出許可をもらい、市内に出掛けて、スーツを1着、ゴルフのパターとマット、ラジカセを一抱え買って病院に戻ったら、スタッフが唖然としていた。そして外出禁止になった。1カ月ほど経った頃だろうか、懇願してPCの使用許可をもらった。寂しくて堪らず携帯電話であちこちに電話をかけ、PCでもあちこちにメールを送ったり、メーリングリストに書き込んだりしたが、情緒は不安定なので、時に過激な書き込みになり、あとで聞けば、友人達は皆どう対応したらいいか、とても心配していたらしい。PC使用再停止になったりもした。なので、スケッチブックや画材を買って、絵を描いたりした。

 2カ月ほど経過すると次第に症状は落ち着き、見舞いの方達と糸島半島のパワースポットでランチしたりして、もう大丈夫だろうと、12月末、3カ月半ぶりに退院したが、いざ復帰してみると全然ダメだった。復帰最初の経営会議(進行は経営補佐部長)の案件は、あまり重たいものでもなかったと思うが、僕は調書を読むので精一杯、市長も周りも僕が読み終わって、ホッとする感じだったことを覚えているが、その後のことはまったく覚えていない。とにかく、あっという間に沈んでしまい、経営補佐部長を続けることは無理で、議会事務局次長への異動を打診された。今思えば、ここしかないっていうポストをよく見つけ、議会と話をつけてくれたと思うが、僕がそうは簡単に行かなかった。1月から2月にかけて上司や妻、主治医を巻き込んで、市役所を「辞める、辞めない」とすったもんだした。奇跡的に友人とのメールが残っていたので、一部を再掲する。

 「主治医の『あなたの今の状態からして、人生の大きな岐路の判断はしてはいけない』というのはごもっともなのですが、私にとっては経営補佐部を去っての転任は、『そんな生き恥をさらすくらいなら死んだ方がまし』」というものでした。

 しかし、私のかつてのわがままで病に追い込んだ妻の主治医を通しての「いつかは辞めると言い出すと思っていたので、それなりに生活設計は立ててきたけど、今の状態ではいくら何でも不安が大きすぎる」という言葉は、「あなたが健康の心配をしている奥さんがこう言っているのですよ」という主治医の言葉と併せ、さすがの私も断念せざるを得ませんでした。

(つづく)


<著者プロフィール>
吉村慎一
(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)

『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411

(22)

関連キーワード

関連記事