【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(24)

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 元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。

第6フェーズ 2004.4~2011.3

2度目の議会事務局~議会改革との出会い

 僕は退院後、半年くらい?妻に一緒に通勤してもらった。一緒の電車に乗って、役所まで一緒に歩いて、玄関で「いってらっしゃい」と別れた。そうしないととても不安だった。
 2度目の議会事務局での当時の僕の印象は、次長職は盲腸のように、いてもいなくてもいいという存在だった。市長室経営補佐部長から議会事務局次長というのは、自治体の組織で言えば地球の反対側に来たようなものだが、当時の僕にとってこれ以上のポストはなかったと思う。その後7年間の異例の長期在職となった。議長は川上義之氏(故人)、副議長は大石司氏、議会事務局長は中央大学の先輩西山さん(故人)。ここでも人に恵まれた。川上議長は広太郎さんと同じく南区選出で旧知であり、僕を受け入れてくれた。大石副議長は公明党市議団の実力者で政策通であり、次長職は副議長とさまざまな会議など同行することが多く、安心してお仕えできた。挫折の傷が癒えるはずもなかったが、開き直ることも覚え、体調は次第に回復していった。

 そうこうするうちに、公明党の浜田一雄議員が、「折角行政改革をやってきたんだし、いろんな蓄積もあるだろうから、一緒に議会改革をやろう」と声をかけてくれた。民間企業に比べ行政分野の改革は10年遅れ、議会という機関は改革の対象としては一番遠い存在だと思っていたが、2年前の行政経営フォーラム例会で、「天命を知る」50歳の誕生日を迎えていた僕は、「改革が自分の天命である」と宣言していたことを思い出した。

議会改革

 会派からの議会制度改革の推進に関する申し入れを受けて、代表者会議において議会の活性化を推進するための検討組織の設置について協議が行われた。そして平成17年(2005)7月、議長の諮問機関として「議会活性化推進会議」の設置に至った。推進会議でとりまとめた事項は、議長に報告したうえで、代表者会議で決定するという建て付けで、了解を取り付けた。議会活性化推進会議は2回の改選を挟み平成23年(2011)3月までの6年間、第1次、第2次にわたり、延べ43項目のテーマに取り組んだ。当時は、政務調査費、費用弁償、海外調査費のあり方が、社会的な問題にもなってきており、この3点セットには大きなエネルギーを注がざるを得ず(座長や議会事務局職員の頑張りで、それぞれに傑出(※)した成果は出した)、インターネット放送などの標準装備は調えたが、本来の改革のあり方を思うと議会という合議制機関の改革の難しさも痛感していた。

 ※議会事務局がやればできることはどんどん進めた。ホームページのリニューアルと併せ議員への情報提供システムを変更することが決定されたので、市議会HP上に「市議会情報BOX」を開設した。ここには委員会に提出される資料なども掲載され、市民にも開示されることとなった。おそらく全国初の画期的な取り組みだったし、「市議会情報BOX」の情報の質とレベルは全国のトップクラスだったと思う。これは今でも、福岡市の具体的な施策内容を調べるのに重宝している。

 平成18年(2006)5月18日、北海道栗山町議会が、我が国最初の「議会基本条例」を制定した。これには驚愕した。議会でこんな条例が出てくるなんて想像だにできなかった。

 その前文にはこうある。「自由闊達な討議を通して、これら論点、争点を発見、公開することは、討論の広場である議会の第一の使命である」。まさに膝を打つ思いであり、外の世界では凄い風が吹き始めていることを知って、僕は打って出ることにした。

 平成20年(2008)7月「市民と議員の条例づくり交流会議」に初めて参加した。栗山町の議会基本条例が制定/施行されていたこともあり、溢れるほどの参加者と沸き立つような雰囲気で、多くの知見と同志を得ることができ、毎年7月末は自費参加することが恒例となった。「市民と議員の条例づくり交流会議」は、議会改革の謂わば「配電盤」であった。

 その後、もやい九州の仲間と地方企画に取り組むこととなり、(第五章もやい九州とともに参照)僕は「市民と議員の条例づくり交流会議」の運営委員に選任され、中心メンバーの1人として活動することになった。

山崎市長の落選

 議会事務局3年目、平成18年(2006)11月の市長選挙で、3選を目指した広太郎さんが落選した。市長室を離れ、市長公約づくりにも関わらず、少し遠くから見ていたことになる僕には、正直なところ意外さはなかった。国政でも風が吹き始めていたし、不利な条件も多過ぎた。8年前の挑戦のときには必ず勝てると思っていた僕なりの見立てだった。

 投票日に福岡にいるのがいたたまれず、早稲田大学で開催された第1回ドラッカー学会に参加して、ドラッカー学会HPにあった「私のなかのドラッカー」の著者、福岡県在住の時津薫さんに初めて相まみえた。ここでの縁が、後に福岡でドラッカー読書会を始めるきっかけとなった。この日行っていなければ、ドラッカー読書会は始まらなかっただろうし、僕のドラッカー思想への傾倒も起きなかったかもしれない?

 夕刻の便で戻り開票を待ったが、やはり完敗だった。僕もこれでスッキリ辞められると思った。

 投票日の翌日、市長の任期中に退職させて欲しいと広太郎さんに懇願したが、認められなかった。当時、議会活性化推進会議の座長を務めていた川口浩議員(僕の採用について議会で追及した方、後に第68代議長)から、「一度辞めて、ああいうかたちで戻って、また辞めるというのは許されない」と叱責され、親身なだけに、これは堪えた。また同僚の馬場伸一君が市役所内はおろか全国各地の同志に、「吉村が辞めると言い出すから、辞めるなと言って」と「お触れ」を廻していた。自席には次々に辞めるなと言ってくるし、それこそ全国各地の同志からのメールが殺到した。さらには、国会、三重県知事時代から知己を得ていて、ローカル・マニフェスト運動を通して、親しくお付き合いいただいていた当時早稲田大学マニフェスト研究所長の北川正恭さんには、市長選挙におけるマニフェスト型公開討論会のメインコメンテーターをお務めいただいたりしていたが、「吉村、辞めるなよ!」とクギを刺されてもいた。

 僕の病は癒えつつあったが、まだ通院はしていた。経営補佐部長の挫折に次いで、広太郎さんの市長落選後も居残るというのは、耐えがたい屈辱にしか思えなかったが、枕を並べて討ち死にのような辞め方は許されなかった。ほとぼりが冷めてから、また考えようと思いとどまった。あのとき辞めていれば、間違いなく野垂れ死にしていただろう。皆さんのご厚情に感謝するしかない。

(つづく)


<著者プロフィール>
吉村慎一
(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)

『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411

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