【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(30)

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 元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。

◇印が広太郎さんの草稿 ◆印は僕が見てきた景色の対比である。

初議会での所信表明

◇平成10年12月14日、市長就任後初の議会となる12月議会が開催され、冒頭私は挨拶を行い、「海に開かれたアジアの交流拠点づくり」は継承し、さらに一層の政策的な肉付けを行い、福岡市は名実共にアジアの一員としてその役割を強め、自らも発展し続けることを目指していくと申し上げさせていただきました。このことについて「市政を変えるといったのに継承するとは何事か」というご批判もいただきました。しかし、私はこのアジアの交流拠点都市という本市の都市像は福岡市の長い歴史的文脈から必然的に導き出されたものであって、市長が替わったからといって変わるようなものではない。誰が市長になっても継承されるべきものと信じておりました。変革にあたっては変えるべきもの、変えないものをしっかりと仕分けして行かなければなりません。私はまずそのことを議会の冒頭で確認させていただいたのです。その他以下のようなことを申し上げさせていただきました。

 ・桑原市政の12年間で本市の都市基盤の整備は著しい発展を見せたと評価させていただきますが、一方で本市も開発・発展の時代から、市民が日常の生活の上で抱える問題に重点を置いた行政の質が問われるべき時代を迎えていると認識している。

 ・こうした認識の上に立って、私は本市の行政を市民生活優先の行政に転換し、市民の生活上の不安や不便を取り除き、市民の豊かさの総和を引き上げることに全力を傾注したい。

 ・本市の財政状況に重大な危機意識をもってこれを健全化し、少子高齢化の波が押し寄せる21世紀に備えるための諸政策を講じる。

 ・平成14年度までに市債発行額と市債償還額を均衡させるプライマリーバランスを達成する。

 ・そのため本市の大規模プロジェクトの一斉点検を行い不要不急の事業を抽出するとともに、財政負担を軽減する事業手法等について多面的に検討を行いたい。

 ・拡大する公共施設の維持管理費の精査や公営企業体や外郭団体の運営についても、公共性を生かしながら経営的手法を取り入れることによって、市財政の負担を軽減したい。

 ・このため早期に大規模事業点検プロジェクトチーム並びに経営管理室を発足させ、これを両輪として本市の経済活力を損なうことなく行財政改革を推進する。

 ・行政はもとより市民やボランティアの方々のお力をいただき、さらにはNPOの支援政策を推進し、市民が安心して暮らしていける信頼の絆で結ばれた地域社会づくりを目指していく。

◆この最初の議会は大規模事業の再点検を含め市長公約事項に質問が集中した。

 2つのことを特筆しておく。

 1つは、九大移転である。一般質問2日目の最初の質問者が九大の移転先としている西区の地元選出の小川周一議員で、勇退前の最後の質問だった。九大移転事業はそもそも国の事業なので、それ自体に市がどうだこうだとは言いづらいため、公約では、関連事業にかこつけて、大規模事業点検対象の1つに挙げていた。実際、広太郎さんの元には、九大関係者から(とくに理系学科の教員達)九大移転反対の声が多く寄せられており、そもそも大学の郊外移転は失敗事例が続いていたので、何とか止められないかというのが本音だった。議会の勉強会は終わって答弁資料はできていたが、あまりに既定方針通りの答弁で、市長自身揺れていた。そのころ僕は、身の置き所は決まっておらず、市役所にいるときは、市長室周辺の会議室をウロウロしていた。答弁資料を見せられて、朱書きを入れることになった。ポイントは、九大移転は本市西部のまちづくりの一環として市も取り組むことになっていたので、これを切り離すことで、本市西部のまちづくりはしっかり取り組み、九大移転については国の動向を注視して行くみたいなニュアンスで書いた。だが、当日の朝イチの議場には九大移転促進協議会だったか?代表の九電幹部以下、地元からも大勢の傍聴者が詰めかけていた。結局、朱書き入りの答弁資料を広太郎さんは読めなかった。

 2つ目は、契約議案「アイランドシティ地区平成10年度外周護岸築造工事請負契約」である。アイランドシティ事業は事業点検の対象としているのに、契約議案が出るのはおかしいじゃないかと、共産党さんのみならず保守系会派からも異論が噴出した。この契約の取り扱いについては、後援会内部でも大激論をしていた。「大規模事業点検の対象とする以上、点検期間中は工事を発注すべきではない」と、「引き返す勇気」を活字にしてしまった僕は単純素朴に主張した。この契約はくせ者で、外周護岸は海上に姿は見せないが、埋め立ての区域を確定することにつながる工事でもあった。広太郎さんとしては、「中止する」とか「撤退する」とかは考えていないし、言ってもいないし、契約差し止めの波及効果の大きさを考えると、契約議案は提出せざるを得なかった。広太郎さんは議場で集中砲火を浴びるが、越えていかなければいけない一線だった。

SBCの特別清算

◇川端は商人の街博多の中心だったところです。私の実家は今も下川端で蕎麦屋をやっていまして、たまに手伝うこともあります。その隣に私の市長就任直後の平成11年3月にオープンした博多リバレインは、ホテルオークラ、スーパーブランドシティ、博多座を中心とした大変豪華な施設で、博多部の振興と活性化の期待を一身に担い、昭和55年から長い年月をかけて組合施行の再開発として進められたもので、施設全体の総延べ床面積6万坪、総事業費1,350億円という大事業でした。しかしそのなかの中核商業施設であるスーパーブランドシティが開業早々行きづまり、当初の契約通り再開発組合から床を取得するどころか、運営会社自体の存続も難しくなってしまいました。スーパーブランドショップの誘致が充分でなかった。さらには事業全体のコーディネートを行った第三セクターの「都市みらいふくおか」の力不足など批判が噴出していましたが、責任より先に商業施設の空洞化によるリバレインの幽霊ビル化を回避しなくてはなりませんでした。博多部振興という目的が頓挫することになります。当初、市当局は直接市が出資していない民間企業の問題に立ち入ることに慎重でした。私はあえて火中の栗を拾うという道を選択しました。私は市に指導監督責任があったのだから、その程度に関わらず率先して問題解決の取り組みを指示し、経済界、金融機関の皆さんとの協議を始めてもらいました。結果の責任は市長の私が負うから、職員の皆さんには全力を挙げて解決に取り組んでほしいということ、そして関係者の皆さんへは責任ある当事者として対処しますというメッセージを送ったつもりです。そこで問題はどのような解決策を取るのかということでした。あれだけ巨大な施設になると管理経費も相当かかります。それに見合う収益をあの場所で確保するには他と違う質の高さが求められますし、市民の税金を投入した地域振興の核でもあるわけですから、市民に親しまれ愛される施設になるべきです。これは二律相反のようなジレンマです。また博多部振興の拠点というからには、市内に留まらず九州全域から人が集まるような魅力づくりも必要です。それができる担い手が誰かというと、いうまでもなく「やる気」と「実力」のある民間企業しかないと私は考えました。新たな第三セクターをつくり、とりあえず床を引き取り、運営委託をする案もありましたが、結局問題を先送りするだけで真の解決、商業施設の再生に繋がらないどころか、問題が大きくなる可能性が高かったのです。民間売却しかないという思いで折衝が続くなか、幸い昨年の2月以来ご相談していた三菱商事さんが私の思いと合致する施設を運営したいということで、同年8月買収の決断をいただきました。その後、紆余曲折はありましたが、関係者のご尽力により協議が整い、今年9月2日に床引き渡しも終え、清算されるSBCに代わる新しい運営会社さんが来年9月のグランドオープンに向け、知恵を絞っておられます。地域との共生も大きなテーマとして、上川端商店街やキャナルシティとの連携や市民に親しんでもらえる施設づくり、イベントづくりに頑張っておられます。ぜひ博多の新しい可能性を引き出し、商業施設として成功していただきたいと願っております。もちろん、今回の解決は金融機関や地元経済界のご理解とご協力あってのことでした。金融機関には多額の債権放棄をしてもらい、地元経済界には組合資産の買収に協力してもらいました。厳しい経営環境に関わらず決断をしていただき、本当にありがたい思いです。(中略)SBCは我々に多くの教訓を残して行きました。再生に向けて市当局は背水の陣でよく頑張ったと思います。しかし、問題発生の根をたどると、ここにも行政の「間違いがない―無謬性」、「一度始めたら止められない―継続性」「悪い情報は上に上げない、出さない―秘匿性」が顔を出していると思います。SBCの轍を踏んではなりません。

◆市当局/現場の奮闘ぶりは、当時の都市開発部長/前副市長の貞刈厚仁氏がその著書『Ambitious City』(松影出版、2020)で活写している。僕は当時市長室の課長職だったが、都市開発局の出身でもあり、再開発事業の難しさはそれなりの土地勘もあったので、とても心配だった。担当助役が港湾局時代から厳しく指導を受け、強く信頼していた美山彰生さんだったので、何とかしてくれるだろうと固唾を呑んでいたのが正直なところだったか。

 元々この再開発事業の目玉は、博多部の中心商業施設であった百貨店「福岡玉屋」の再生だったので(僕の幼いころは、天神に行くと言えば「岩田屋」、博多に行くと言えば「玉屋」だった)、生き残りをかけた玉屋がその経営判断として出店できないとした事業スキームにそもそも問題があったはずなのだが、時のバブル経済の風潮もあってか、テナントリーシングのノウハウもないままに、しっかりとしたフィジビリティスタディもプロジェクトファイナンスも詰めないまま、あけすけに言えば、ただひたすら福岡市役所の看板で突き進んだということだろう。当然、福岡市は債務保証も損失補償もしていなかったので、その尻拭いは金融機関に降り掛かった。しかし、このときの金融機関、F銀行の怒りは凄まじかった。何と言っても9銀行で450億円の債権放棄で、F銀行の経常利益1年分を飛ばしたといわれ、頭取は「福岡市を一生許さん」と発言されていたとも仄聞していた。広太郎さんは、「頭取は会ってもくれん」とか、「某幹部が大通りで大の字でひっくりかえった(これは福岡市のことはもう知らんと、寝てしまったことの喩えだった)」とこぼしていた。しかし、この事件はある意味、市役所と金融機関(指定金融機関という位置づけも含め)の関係を正常化させていく契機になったと思う。これまでは、福岡市の事業だからと、よく言えば信頼関係、悪く言えばもたれ合いの関係にあった側面があり、肝心の事業のフィジビリティスタディやプロジェクトファイナンスの詰めがズブズブだったところがあったというのが正直なところ。金融機関自体がバブル後の不良債権処理を契機に、厳しい経営環境に直面してきたこともあり、そのような緩みは一切許されない環境が生まれていたし、福岡市も資金調達が役所の看板では片付かない極めて厳しい環境に遭遇するようになっていった。お互いにとって「目を覚ます」機会になったということだろう。

 このSBCの清算は、その後の福岡市政の大きな転換点になったと記憶されなければならない。そしてさっそく、福岡市が51%を出資する博多港開発/アイランドシティ事業には猛烈な逆風が吹くことになっていった。

(つづく)


<著者プロフィール>
吉村慎一
(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)

『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411

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