【特別寄稿】縄文人とアイヌについてどこまでわかったのか、私たちは何を学ぶべきなのか

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縄文アイヌ研究会主宰 澤田健一 氏

最新の研究成果

縄文アイヌ研究会主宰 澤田健一 氏
縄文アイヌ研究会主宰
澤田健一 氏

    2024年は日本民族の解明にとって驚異的な研究結果が公表された年だった。私たちの体にはネアンデルタール人やデニソワ人の血も流れているというのである。理化学研究所が、3,256人分もの大量なデータを基礎として公表したのだ。東京大学医科学研究所内に設置されているバイオバンク・ジャパンには、日本人集団27万人ものデータを保有しているそうだ。これからもっと詳細な解析情報が公表されていくことになるであろう。

 これまでも重要な指摘がなされてきたのだが、その主なものを見ておく。まず19年に国立科学博物館、国立遺伝学研究所、東京大学、金沢大学など7研究機関の合同研究の成果として、現代のアイヌは縄文人の核DNAを約7割も受け継いでいると発表された。それまでは、アイヌは13世紀に北海道に侵入してきた北方の異民族である、アイヌと縄文人は関係ない、という間違った論を唱える人も多かったが、それらが完全に否定されることになった。それにしても現代アイヌが1万年以上も前の縄文人の遺伝子を今でも約7割も保有しているというのは驚きだ。

 続く20年には、東京大学、東京大学大学院、金沢大学の共同研究によって、アイヌは日本列島の住人として最も古い系統であると公表された。そして遺伝子の系統樹ではアイヌと縄文人は同じ枝にいるのだという。これは前年の研究結果を上書きするものとなった。アイヌは13世紀に侵入してきたどころか、日本列島の最古の住人なのだ。そして、縄文人は東ユーラシア人の根に位置しており東ユーラシア人の創始集団の子孫だと結論付けている。さらには、現在東ユーラシアに住んでいるすべての人々は南ルートでやってきたというのだ。これは筆者が指摘している、日本民族は南方からやってきて大陸に進出していったという論の裏付けとなった。

 翌21年には金沢大学などの合同研究によって、私たち日本民族が三重構造で成り立っていると発表された。それまでは日本人は二重構造で成り立っているとされていたのだ(埴原の二重構造モデル)。縄文晩期の日本に朝鮮半島から異民族の渡来があり、それが弥生人だとされ(つまり縄文人と弥生人は別民族だとされ)、この二重構造によって日本人が成り立っていると考えられていたのである。それが完全に否定されたのである。稲作伝来は朝鮮人によってもたらされたのではなく、縄文人自身が大陸から持ち帰ったのであるが、それは後述する。

 ここで三重構造モデルを少し解説しておく。日本民族の基本構造が縄文人遺伝子であることには変わりがない。私たちすべての日本人には縄文人の遺伝子が引き継がれている。その基本遺伝子に2度の大きな混血が起きているのだ。まず1回目は弥生時代に起きるのだが、それは朝鮮半島からのものではなく、北東アジア系の遺伝子の混入なのである。2回目は古墳時代以降に起こり、それが朝鮮半島からの遺伝子なのだ。戦後の学者たちは「弥生時代に朝鮮から稲作渡来人がやってきた」と説いていたが、日本書紀では「古墳時代以降になってから朝鮮からの難民を大量に受け容れた」という流れで書かれている。結局のところ戦後学者たちの主張は完全に誤りであり、日本書紀のほうが正しかったのだ。それを科学が証明する時代になってきたのである。

 そして24年の理化学研究所の発表である。現代日本人の疾病にネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子が影響をおよぼしていることまでわかってきた。古代人類の遺伝子が私たち日本人の糖尿病に影響をおよぼしているそうだ。そして理化学研究所の解析によって日本人の三重構造モデルが正しいものであることの裏付けとなったと説明している。大量なデータに基づくものである以上、この流れが変わることはないであろう。

日本民族の三重構造

ネアンデルタール人
ネアンデルタール人

    そこで再度、三重構造モデルを順を追って見ていく。まず南方のインドネシア辺りにいた日本民族のご先祖さまたちが、3万8000年前ごろに丸木舟に乗って日本列島に到来したのが始まりである。それ以降、日本列島から一気に石器が出土し始めることから、日本初上陸は3万8000年前ごろとされている。ところが、それ以前の遺跡が数十例発見されており、そこにはネアンデルタール人やデニソワ人が住んでいたのだろう。その人々と混血したということになるようだ。その遺伝子が日本民族の基礎遺伝子となる。一般的に縄文人遺伝子と呼ぶことが多いが、3万8000年前はまだ縄文時代よりはるか以前であり、夷(えびす)遺伝子と呼ぶ方がより正しいだろう。

 そこに、弥生時代を迎える紀元前1000年ごろから、第二の祖先成分が入ってくる。夷遺伝子のなかに大陸の遺伝子が混入してくるのだ。その遺伝子は北東ユーラシア由来の遺伝子なのである。日本列島から大陸へと進出していったご先祖さまは、北東ユーラシアにおいて馬に乗り始めた。それを西洋ではスキタイ人と呼び、東アジアでは匈奴と呼んだ。いろいろな呼び方をされたとしても、それは日本民族の夷なのであり、今でいう縄文人なのである。ヘロドトスは一番東側に王族スキタイがいると記すが、それは「縄文人は東ユーラシア人の創始集団」だとする結論と合致する表現となる。

縄文人の末裔 大陸からの帰還

 実際に弥生時代の吉野ケ里遺跡からはスキタイの細型銅剣の鋳型が出土している。北部九州でスキタイの青銅器をつくっていたのである。また、縄文時代晩期の東北・北海道に興った亀ヶ岡文化は殷王朝の影響で誕生したとする見方がある。この文化圏では三足土器が出土するのだが、その祖型が見当たらないことから、殷の三足青銅器である鼎が祖型だと見られている。そして東北では殷でつくった青銅器本体が出土しているのだ。こうして日本列島と東ユーラシアには交流が見られるのである。

 そしてヘロドトスはスキタイの混血についても記している。つまり大陸北方に出て行った夷たちは現地の他民族と混血を始めたのである。そうして他民族の遺伝子を取り込んだご先祖さまたちが紀元前1000年ごろに日本列島に帰ってきた。この年代には重要な意味があるのでこれも後述する。いずれにしても北東ユーラシアの他民族の遺伝子を取り込んで帰ってきたのである。その人々は騎馬民族と化していたので、当然のように馬を連れ帰った。だから東北・北海道には馬がいるのだ。もともと日本には野生の馬はいない。馬はモンゴル高原が原産地である。

 話は後代に飛ぶが、応神天皇のころから、大陸から朝廷に馬が献上されるようになる。藤原摂関家にお祝いことがあると、東北藤原家から馬がお祝いとして献上された。それらは1頭2頭という単位である。だから源平合戦のときに騎馬に乗っていたのは源氏も平氏も大将クラスしかいない。それなのに、その当時の奥州藤原家は奥州17万騎を誇っていたのである。

 大陸の騎馬集団はスキタイとか匈奴とかと呼ばれていたとしても、そんな呼称は日本人には馴染みがない。日本人はその人々を蒙古と呼んでいたのである。そして東北には「蒙古の子守歌」が残っている。子どもを寝かしつけるときに、早く寝ないと山から蒙古が下りてきて怖い目に遭うぞ、と寝かしつけるのである。蒙古は身近に居たのだ。

 説明が長くなったが、これが第1弾の混血であり、それは北東ユーラシアの遺伝子の流入であった。そして第2弾の大規模な混血が古墳時代以降に始まる。これが朝鮮半島経由の遺伝子混入なのであり、それは漢民族を含む人々である。このときの渡来人は完全な他民族である朝鮮民族であったり、漢民族であったりするが、中国南方にも日本民族はいたのである。

 大昔に日本列島から東ユーラシアに進出していったご先祖さまたちは北方だけではなく、南方へも進出していった。そして江南地方で沼地に自生する稲を見つけて、水田稲作を始めた。それは1万年前ごろのことである。そして同時に江南地方では貝塚が出現し、その広い地域一帯からは縄文時代固有の織物である編布(あんぎん)が出土していて、縄文土器が大量に出土するのである。その水田稲作の代表的な遺跡が河姆渡(かぼと)遺跡であり、それは本国日本に一番近い東側にある。その人々はみな屈葬されており、その埋葬方法は縄文習俗なのである。つまり、1万年前の江南地方で水田稲作を始めたのは縄文人なのだ。その人々は他民族と混血することなく、紀元前1000年ごろに本国日本へと帰ってくることになる。

 それでは、なぜ紀元前1000年ごろに南北の夷たちが日本へ帰還することになったのかを見ていく。それより少し前に殷王朝が周王朝によって政権を奪われ、周の支配が中国全土に広がり始めたのである。それによって、周の支配を嫌う人々が本国へと戻ってくることになったのだ。殷王朝は正しくは商王朝なのだが、周はその呼称を禁じた。「商」という字形は台の上に入墨を入れる針を置いたかたちからできている。要は入墨に由来した文字なのだ。周はその入墨文化を否定したかったのだ。周以降の中国では入墨は罪人の印となった。そして「商」と呼ぶことを禁じて「殷」と呼ばせた。殷とは、腹のなかに膿が溜まった国という意味らしく、そうした差別的な呼び方を強制したのである。

 その商の人々は大陸を行き来して交易活動を行っていたが、日本に帰ってきてからも海外交易を続けた。その商の人々がもって歩く品物のことを「商品」と呼び、商の人々が物を売る行為が「商売」であり、その人々は「商人」と呼ばれた。だから商売繁盛の神さまは「夷神社」なのである。義経を平泉まで連れてきたのは金売り吉次という商人であり、その平泉の金色堂にはアフリカゾウの象牙まで使用されているというから驚きだ。こうして日本の文化や歴史には、ちゃんと意味があり連続性があるのだ。

現代の民族問題

 こうして、日本民族の歴史は3万8000年前から連綿と続いているのであり、他民族に征服されたり、大量の異民族が入ってきて日本文化の中心をなしたりしたことなど一度もない。日本人の技術や文化は途切れることなく連続性を有している。つまり私たち日本人全員は縄文人の子孫なのである。ロシアは「アイヌは日本民族ではない」と言って、北海道の領有権を主張しているし、中国共産党は「琉球民族は日本民族ではない」と言って、沖縄の領有権を主張するが、日本民族を分断しようとする陰謀には絶対に乗ってはならない。とくに北方では北海道のみならず、全千島列島も樺太も有史以来、日本民族しか住んだことがない。本来であれば全千島・樺太も日本固有の領土なのである。

 たしかに、北方の夷は中央政権と対立し、それを征するために「征夷」大将軍が日本の政治を司ってきたのだが、征夷大将軍を中心とする幕府政権と北方の夷は日本の歴史を表裏一体となって織りなしてきたのだ。そこにロシアが口を挟む余地など寸分もない。それを現代の我々はしっかり認識しなければならないのである。

縄文人から何を学ぶべきか

 さて、縄文時代の一番の特質として、1万数千年もの間に戦争がなかったことがあげられるだろう。日本国内ではその後も、長期間にわたって戦争がない平和な時代を何度か迎えているが、1万年をはるかに超える年月において戦争をしなかったということは驚異的な事実である。そうであるからこそ集落の存続期間が6000年とか8000年にもおよぶムラがあるのだ。そんな集落は西洋にも東洋にも1つも存在しない。神に感謝しながら適正な規模を保って皆が協力し合って生きていたからであろう。それが聖徳太子の和の精神に引き継がれていく。

 その徳性はかなり薄まったとしても、現代の私たちにも受け継がれているのはたしかだろう。海外に行くと日本人の清潔さ、礼儀正しさ、優しさを改めて感じることがある。震災が起きても暴動や窃盗など働かずに、ちゃんと整列して支援物資を受け取る映像を見ると感動さえ覚える。ただし、そうした美風は間違いなく衰えてきているのだとも思う。もう一度私たちは感謝をもって生きることを学び直さなければならない。おテントウさまが見ているのだから正直に、そして人に優しく生きなければならない。西郷隆盛はそれを「敬天愛人」と呼んだ。天を敬い人を愛する生き方、それは正に縄文人の姿そのものであろう。


<プロフィール>
澤田健一
(さわだ・けんいち)
1964年札幌市生まれ。同志社大学工学部卒。既存の枠にとらわれず、歴史・考古学を独自に学ぶ。思いつくまま読み・歩き・聞き・見ることを旨とし、文献やデータを忠実に読み解き歴史の事実に迫ることを目指している。縄文アイヌ研究会主宰。著書に『縄文人の日本史』『夷の古代史』『古代文明と縄文人』『大和朝廷vs邪馬台国』、すべて柏艪舎刊。
縄文アイヌ研究会公式ホームページ

<著書紹介>

 

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