歴史の“たられば”を検証する

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 NetIB-NEWSでは、政治経済学者の植草一秀氏のメルマガ記事を抜粋して紹介する。今回は「鳩山内閣が8カ月で終焉した背景に、鳩山氏と小沢氏に対する離間工作があった」と指摘する4月5日付の記事を紹介する。

 日本政治にはいくつかの分岐点があった。それらの分岐点の決着が異なるものであったなら、その後の歴史は異なるものになった。歴史のIfは意味がないと言われるが過去の検証は重要だ。

 2006年4月に小沢一郎氏が民主党代表に就任した。前原誠司氏が「偽メール問題」の処理を誤り、民主党が信認を失った局面。「火中の栗」を拾うかたちで小沢一郎氏が民主党代表に就任した。ここから民主党が大躍進した。結果として2009年8月総選挙で民主党政権が樹立された。

 樹立されたのは鳩山由紀夫内閣で小沢一郎内閣ではなかった。しかし、民主党を基軸とする新政権が総選挙での主権者の選択によって誕生したことは間違いない。本来は小沢一郎内閣が誕生した局面だったが、小沢氏と鳩山氏は連携して政権を樹立したから意味は同じだ。

 小沢氏が民主党代表に就任した2006年から2011年までに多くの重要な事象があった。このすべてが歴史の転換点を創出した。そして、そのすべてが、ある一つの「大きな意思」によって規定されてきた事実がある。その洞察が重要だ。全体を貫く「大きな意思」とは、小沢-鳩山ラインによる政権を妨害するというもの。この点を洞察することが重要。

 2006年4月に小沢一郎氏が民主党代表に就任した直後、千葉7区で衆院補選が実施された。民主党候補太田和美氏が奇跡的な勝利を収めた。ここから小沢民主党の大躍進が始動。2007年参院選で民主党が大勝。参院での第一党に民主党が躍り出た。このことによって衆参ねじれが生じ、政治に良い意味での緊張感がもたらされた。そして、決戦の総選挙が2009年8月30日に実施され、鳩山民主党が歴史的大勝を得て民主党を基軸とする連立政権を樹立した。しかし、振り返ると小沢氏が民主党代表に就任してから、直ちに小沢氏の影響力を排除しようとする「工作」活動が本格化した。

 2007年の参院選で民主党が大勝。参議院で民主党が第一党に躍り出た。このなかで福田康夫首相は民主党との大連立を模索する。小沢氏による日本変革断行よりも小沢民主党を政権に取り込んだ方が、ダメージが少ないとの判断だったと考えられる。大連立は民主党内の反対多数によって消滅した。

 2008年春の日銀幹部人事。私は財務省天下りを阻止するために民主党の全国会議員に書簡を送付した。このことも大きく影響したと思う。日銀幹部人事で財務省天下りを排除する動きが拡大。この結果として武藤敏郎氏の日銀総裁就任が消えた。このなかで、財務省財務官経験の渡邊博史氏の副総裁就任案が浮上。しかし、小沢氏は財務省天下り排除の方針を貫徹した。この過程で仙谷由人氏を中心に渡邊博史氏の副総裁就任を容認する動きが本格化した。その狙いは民主党内での小沢一郎氏の求心力を低下させることにあったと思われる。

※続きは4月5日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」「歴史の“たられば”を検証する」で。


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