
あるシングルマザーが傷ついていた──フルタイムで働いて、娘の面倒は夕食まで実母が看てくれている。毎日夜遅く帰って、子どもにご飯をつくってやれないこと、娘と一緒にいる時間がどんどん短くなっていること、ただただ苦しいと──子どもと一緒に笑っている母との会話を観るだけで、自分は何をしているのだろうと涙が出てしまう。この世で一番大事な存在と一緒に夕食をとる代わりに、自分は遅くまで会社で残業している。罪悪感ばかりが募り、楽しく笑える余裕がないのだと。
親の時間が足りない
男性がどうとか、女性がどうとかではない。男性でも家事をメインで担っている人もいるし、これから担おうとしている人もいるだろう。何より、家事をやるのはパートナーだったり家族だったり、まわりの誰かを助けるためではない。その人自身が生きるために家事は必要なもの。パートナーがいて、その人が普段主になって家事を担当することは、何も悪くない。母親にやってもらうことも、それ自体は悪いことではない。その家族の選択だ。でも、その家事をやっている人が、常に健康で問題なく家事ができるとは限らない。もし、その日がきたとき、残された人が何もできないと、その生活は途端に破綻する。

子どもが小さいとき、もう少し一緒に居てあげられたらと思うが、小学生、中学生と大きくなっていくにつれ、その先は受験をはじめいろいろな壁がある。働く女性はむしろ子どもが小さいときよりも、小学校高学年になったあたりで仕事を辞める選択をするというデータもある。保育園のように預かってくれる場所もどんどん減っていくし、習いごとをするのにも、母親のサポートが不可欠というケースは少なくない。10年仕事から離れた(フルタイムで働いていない)女性を社会がどう扱うか、いうまでもないだろう。
子どもをもってフルタイム労働をしている女性は、産育休後も継続的に働いている人ばかり。自身のキャリアアップのためにも、何より生活のためにも働きに出なければならない。彼女は今、立ちはだかる厳しい社会の壁に、憤りを感じているのだ。子どもと一緒に居たい気持ちも、消耗したくない気持ちもあるだろう。でも、だからといってしょうがないじゃないかと、屈したくないと思っているのだ。女性は、育児の責任を主体的に負う確率がいまだに高い。なぜなら母親の人生は、子育て前から、子育て中も、もちろん子育てが終わってからも続くのだから。
家事をやることに男性も女性も関係ないのは建前。それでも社会から押し付けられる圧力は全然違う。「女性が苦しんでいるのは、彼女が女性だから…」それもあるだろうし、何より母だから。母にのしかかる重圧はケタ違いに大きい。もちろんシングルファーザーにはまた違う苦しみと圧力があるだろうが、その違いは、世間で求められる女性像を残したまま子育てをするのだから、想像以上な荷重となる。この社会は、フルタイムで働きながら、まだ小さい子どもの面倒を看続けられるようにはなっていない。男性側もそのことを知っておく必要がある。
原材料価格や電気代、燃料代などの高騰が加速し、家計を圧迫してきている。4月からは2024年を上回るペースで値上げが進んでいる。物価の高騰、この波のなかでも国は老後の生活を自身の力で賄ってほしいと、そこに力点を置いている。必要な費用を自身で積み立てていく方針に対し、リソースとしての可処分所得が追い付かない。女性の社会進出を求めながらも、子どもをもちたいというはざまでの苦悩。子どもにかける経済的余裕、精神的余裕、時間的余裕もないままに、未婚化・晩婚化を社会課題とされる風刺。子どもを育てていくための十分なセーフティネットが整っているとは思えない。親の時間が足りない。
新しい家族モデルとは
「人生すごろく」が生きていた昭和の時代に比べ、現代社会において“家族”は本質的にコスパが悪くなってきている。経済成長時代、ものづくりで経済が回っていた当時は、男性労働者を中心とした年功序列や終身雇用が生活を支えていた。子どもの養育や教育を担う家族は社会の維持に直結していて、個人的負担はもちろん社会全体で考えても、家族は「コスパが良い」状況だったといえる。しかし、産業構造の変化にともない、家族の形成や維持には、個人の努力による要素がより大きくなってきている。時間に余裕がある専業主婦と、収入に余裕があるサラリーマンによる性別役割分業は、第三次産業への移行が生じたポスト工業社会よりも前の日本においては、優れたシステムとして機能していた。
なお、今の日本も、家庭に1人専業の家事労働者がいるという前提で社会が駆動しているように見える。社会システムが、フルタイム労働者は家庭内のケア労働を担えないくらいに忙しく働かされ、家事労働者は一度仕事を辞めると非正規やパートでしか働けないようにして、家庭内の労働を無償で担わせる。かつて専業主婦が家のなかに居たような時代背景のまま、日本人の学びは止まっている。

Vol59:「新・家族主義のかたち」より
現実の社会背景に沿った制度設計をして作戦を立てなければ、そこで生きている者は疲弊してしまう。子どもを育てながら働き、家事を回していく世のお父さんお母さんは事実、疲れて息をあげ始めている。1日24時間、1人の人間に与えられた時間のなかで現世の働き方を進め、社会生活をしながら(良い教育を含めた)育児・家事を完遂するという芸当は、たやすくできることではない。「男性はしっかり働いて家事には文句を言わず」「女性は積極的に家事に取り組んだうえで経済については文句を言わない」なんて時代じゃない。今日の日本では女性の社会進出が進み、その陣形は崩れた。「昭和」の時代とは社会状況が異なるという現実を個人の生活視点から見直し、“新しい家族モデル”をつくり出すときにきている。(vol.59/23年4月末発刊:“新・家族主義”のかたち~脱・LDK化による日本家族の再編~参照)
育児をあきらめたくない
子育て世代の親たちは、子どもに対して限られた時間をどこに費やすのが良いだろうか。
「時間貧困」という言葉がある(日中の活動時間から通勤・労働時間を引いた際に、家事・育児・余暇の時間を十分に取れないこと)。経済学では、時間は親が行う非常に重要な教育投資と考える。もちろん、お金をかけた良い教育、良い体験機会も投資対象だが、幼少期に親が子どもに時間を使ってあげることも重要な投資の1つだ。日本は長時間労働で、将来世代への時間投資が奪われている。そこを少しでも和らげることができれば、子どもへの時間投資は増えていく。国の継続には“子どもを支える”ことが必要だ。日本の企業はやはり働き方を見直していくべきだろう。
子どもの学齢が小さいときは、やはり母親の影響、存在が大きくなるが、では母親は家に居たほうが良いのかという疑問が浮かんでくる(学歴が高い母親ほど子育てに時間をかけているといわれる)。実は働いていても専業主婦でも、子育てにかける時間投資に大きな差がないというデータが出ている。子どもが小学校に入ってしまうと、親が働いている時間帯は、子どもが家に居ないことも多いため、外で働いている母親と専業主婦の母親とで、子どもと過ごす時間にそれほど大きな差は生じないというわけだ。学歴のほうが働き方よりも大きな影響を与えているのではないか、働き方の問題がそこまで子どもに大きな影響を与えることはないのではないか、というのが、教育経済学のなかでの今のところの見解のようだ(参考文献:「科学的根拠で子育て_中室牧子)。
親が仕事から帰ってきて、あるいは子どもが学校から帰ってきて、6時間も7時間も勉強する時間があるというわけではない。多くても平日数時間程度のなかでの差となれば、親の働き方による時間投資の差は、大きくはならないとみられる。問題は時間という枠ではなく、その時間内で接する濃度といえるだろう。

さて、子どもが過ごす人生期間を大きく2つに分けてみたい。幼少期の「家庭環境」と、就学時期~中等教育期の「学校環境」。子どもの年齢が小さいときの親の時間投資は非常に効果が大きいといえそうだが、その重要性は子どもの成長とともに低下していき、子ども自身の時間投資の重要性のほうが増していくことも押さえておかなければならない(つまり、どこかで親はフェードアウトしていくわけだ)。子どもの年齢が上がってくると、親の接触よりもお金による投資が意味をもつようになってくるというのも重要な点。国の将来をつくる子どもを…、社会でちゃんとやっていけるように我が子を…、大人になっても枯れにくい波動を今のうちに種まきし、後に芽吹かせてやりたい。ギリギリでももがく。親がせめてやれることを、見えないギフトを贈ってやりたい。限られた時間資本のなかで、「家庭」と「学校」で最低限ピックアップしておきたい視線がある。…それでも育児をあきらめたくないのだ。
進歩からレジリエンスへ
最近の若い人は「心がすぐに折れてしまう」という。子どもは一度でも挫折を経験すると、またすぐ戻らないといけないと思い込んでしまう。だから、すぐに立ち直れない自分に焦りを感じる。失敗してもすぐに立ち直るのではなく、ふわっと戻ってこられるような柔軟な回復力をもっているかどうか…。何か困難なことに直面したとき、落ち込んだ状態から瞬時に回復できるかよりも、結果的にちゃんと元の状態に戻ってこられるかどうかが、子どもを潰さない大事な能力になる。これは大人になっても続けていきたい基礎的なスキルだ。
産業革命を起点とする効率と生産性の追求は、限界点に達しつつある。“しなやかな回復力”という意味をもつ「レジリエンス」は、“自然に適応し共存する能力”へと幅を広げてとらえることができるが、現代社会を生きていくために、レジリエンスの強さは重要なキーワード。今レジリエンスを育てる力が必要だ。

レジリエンスが強い人は、回復するための方法をいくつも考えられる特徴がある。何か失敗や挫折をして落ち込んでしまっても、二者択一で解決策を探すのではなく、選択肢を2つ以上持つようにすることで、「それがダメならこっち」とさまざまなパターンに転換することができる。逆にいえば、1つのことに執拗にならない柔軟性を手に入れることができる。プロのアスリートたちがもっている“レジリエンスの強さ”とは、成績が下がってしまったときも、そこからどうやって復活するかを“柔軟に考えられる”ことに尽きる。たとえばトラブルや難題にぶつかったとき、すぐに代替案をもっているかどうかが気持ちの余裕となるし、仕事ができる人は大抵、プロジェクトが行き詰まったときにもほかのアイデアをすでに温め始めているはずだ。
小さな成功を積み上げる
幼少期の子どもは、この“考える力”を自分で身につけることはできないという。いくつも選択肢を提供することで、少しずつ回復するための道筋を覚えていくのだ。このとき少ない選択肢だけを提示してしまうと、うまく立ち直ることができないことがある。たとえば子どもが習いごとをやめたいと言い出したとき、親は「子どもが嫌ならやめさせよう」か「子どもが嫌でも続けさせよう」の二択で考えてしまうケースが多い。また、なかには「何が何でも続けさせる」というスタンスの親もいるし、忙しい親はかまっていられないと「だったらやめれば…」と突き放してしまうかもしれない。
重要なことは、子どもが考えていることをどこまで引き出し言葉にしてあげられるか、そして引き出したことを基にサポートする人がどう料理していくかだ。子どもがなぜやめたいと思っているのか、逆に何を求めているのかをじっくりと考察し、どんな解決策があるかをお互いに擦り合わせてみる。落ち込んでいる子どもに対して、「選択肢はこれしかないよ」と言ってしまうと、その方法がうまくいかなかったとき、立ち直るのが難しくなってしまう。「こういう方法もあるよ」「あんなやり方はどう?」と、多様な選択肢を指し示すことで、子どもにより広い視野と復元力をもたせてあげることができる。
すぐにレジリエンスを身につけさせるのは難しいが、しっかりとケアしながら選択肢を提供することで、着実に回復する力が養われていくのだ。選択の幅をもたせて誘導してあげることは、(_α_)のセンスが問われるといえるだろう。(_α_)が小さなステップを示して1つずつ問題を解決させるように仕向けることで、少しずつ上がっていく感覚を覚える。この小さな意思決定の積み重ねが、最終的に大きな自信や成功につながり、また一度の失敗がその後の道を狭めることなく、何度も挑戦する基礎体力となる。
選択肢が多いということは、安心につながるのだ。どんな人でも失敗することはあるのだから、そこからどう動いていくべきかを導いていく。子どもたちには、周囲の人との比較ではなく、過去の自分との比較をするように仕向けることが重要だ。その選択肢を無条件に、そして止まることなく与え続けられること、家庭での日常のなかでの働きが子どもたちのレジリエンスの強さにつながっていくことになる。“親に時間が足りない”ことは、ここに余裕をもって対峙できない。思考を傾けることが難しい状況こそが、子どもの能力開発を閉ざしてしまう大きな障壁となっているのだ。

(つづく)
<プロフィール>
松岡秀樹(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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