機能不全だらけの世の中(3)朱子学と科学

福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏

宇宙 システム イメージ    徳川家康はシステム・デザインの達人だった。「士農工商」という階級制度をつくったため、「封建社会」の元凶とされもするが、彼のつくったこの制度によって、それまでバラバラだったいくつもの集団が1つの社会になったのだ。

 しかも、その上層部には朱子学を学ばせ、彼らの知的良心を鍛え、社会的責任感を負わせた。

 そもそも朱子学は、アジアが生んだ最も整った哲学システムだ。宇宙論あり、自然学あり、心理学あり、倫理学あり、社会組織論に政治学まで含まれている。しかも、それらを貫く鋼の論理がある。これを家康は注入したのだから、日本中の知識人がシステムに目覚めておかしくなかった。

 家康の孫にあたる家光の鎖国政策と幕府の職制整備によって、上記の社会システムは一層堅固になった。それが独自の文化の育成に寄与したことは間違いない。今の日本が世界に誇る文化の大半は、このシステムの産物だ。

 当時の学者は朱子学を基に自然研究もすれば行政研究も行い、哲学もすれば詩文にも通じ、農業や経済を論じて、どうすれば社会がもっとよくなるか、いかにして人々がもっと楽に暮らせるようになるかを考えた。私にとって、この時代の学者こそ理想である。

 そういう学者の一例を挙げると、豊後(いまの大分県)の三浦梅園となる。この日本最初の哲学者は、「すべて人のいうことは一度は疑ってみた」 というところから出発し、天文学、自然学、論理学へと進み、ついに独自の宇宙哲学を打ち立てた。

 しかもその宇宙論は、人間のものの見方次第で世界が変わるという見方に支えられ、認識と存在の連関をも論じている。一体どこから、こんなとんでもない哲学が生まれたのだろうと思ってしまう。

 彼が医者であったことが大きかったのだろう。医者とは人体を知る人であり、人体は自然のミニチュアでもあれば、社会関係の基本としての個人でもある。そういうところから、彼は医学の根本にある哲学の世界に潜り込み、また人と人をつなぐ倫理の世界に興味を抱いたのだろう。

 梅園の学問の裏には、当時必須だった朱子学があるのは間違いない。だが彼は、朱子学以外の中国思想をも研究し、暇さえあれば長崎経由で入ってきたオランダ学問にも目を向けていた。しかも、中国や日本の古典文学にも目を向け、詩論まで書いている。たまげざるを得ない。

 数ある彼の著作のなかで『価原』(経済的価値の原点)に注目してみたい。貨幣論である。

 これによれば、貨幣の価値は信用によって成り立つ。その信用は「条理」に基づくもので、生産物と貨幣流通量と物価と労価のあいだにも論理的な関係がなくてはならない。

 一見してとっつきにくい論だが、彼が経済に関しても宇宙に関しても「条理」すなわち論理を重視していたことに注目したい。彼にとって、「条理」に則った行為のみが価値をもつものだったのである。

 私にすれば、そもそも「条理」に気づくこと自体、驚くべきことである。条理とは骨格であり、筋道だからだ。これが見えるにはX線的眼力がなければならない。

 時代がいくら進もうと、自然界をシステムとしてみること、社会をシステムとみることは重要である。そこに科学の基礎があるともいえるからだ。梅園のいう条理はシステムの構造のことであり、そこからもろもろの機能が生まれる。言葉づかいは古くても、彼の発想は極めて科学的なのだ。

 そういう彼のシステム論が同じ豊後の帆足万里に流れ込み、それが豊前の福澤諭吉にまでおよんだとみる。帆足万里は梅園の著作に親しみ、そこから物理学に興味を持ち始めたといわれる。その結果がオランダ語習得であり、そこから彼は西洋科学の道に入ったのだ。

 帆足は西洋の天文学や力学、さらには生物学まで網羅した日本最初の自然科学書を著した。その知識の一部が福澤諭吉の父・百助に伝わり、それが息子にまで伝染したと思われる。

 もっとも、福澤諭吉自身は兄が帆足流の数学を学んでいたので、それが自分にも影響したのではないかと言っている(『福翁自伝』)。

 ところで、システム論は科学の母である。ところが、実際にはこれとは相容れない原子論が科学の世界では優勢となっている。この事情についてはここで説明できないが、原子論が個々の要素を実体と見なし、全体よりも個を重視するのに対し、システム論が全体の関係性や相互作用を重視するという違いは大きい。同じ科学といえども、流れは1つではない。

 それでもシステム論は科学の世界で力を得てきている。その背景に、先に述べたエンジニアリングの発達があったと私個人は思うのだが、生態系を重視するエコロジストの影響も無視はできない。

 いずれにせよ、地球温暖化をみても、国際政治のありようを見ても、人類全体がシステム論的発想に欠けていることは明白で、いずれの民族も国家中心主義から抜け出せず、「地球システム」は依然として夢物語となっている。システム論は未来の学問なのかもしれない。

(つづく)

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