福島自然環境研究室 千葉茂樹
ヒトは自分勝手
ヒトの思考や行動は自己本位であり、同じ事象でもヒトによってとらえ方が違う。
一例を挙げれば、ある人物が、多くの者から「イジメられた」と訴えてきた。このため、イジメ加害者とされた者たちを呼んで事情聴取をした。聴取内容を総合的に判断すると、被害を訴え出た者が「大元の加害者」と判明した。被害を訴えた者が、SNSで多くの者に「自己中心的な内容」を送った。これに対し、受け取った側が反応しただけであった。この反応を「自分に対するイジメ」ととらえたのである。
このように、ヒトは「自分本位」で物を考える。「自分は被害者」と訴えて出ても、実際は加害者である場合もある。真実は、「慎重かつ詳細」に調べないとわからない。
私の経験からいえば、何が真実なのかはヒトの証言では判断できない。真実は「複数のカメラによる証拠の動画」でもなければわからない。複数のカメラというのは、1個のカメラでは、映らないところもあり、正確ではないからである。
ただし、最近は、偽(フェイク)動画も簡単につくられる世の中になってしまった。要するに、「何が真実かまったくわからない」時代に突入した。
解決は問題が小さいうちに
話は戻って、国分氏側から今回の件を見てみよう。国分氏は「国民的人気者」で、日々の行動には、本人の意識とは別に「おごり」があったと推測される(本人の会見から)。これは国分氏に限ったことではなく、ヒトは自分が優位になると、知らず知らずのうちに傲慢になってしまう。今回の問題も、この辺から生じたと考えられる。国分氏は、本人の意識とは別に、周囲の人々へ「無言の圧力」をかけ、傍若無人の行動をしていたと推測される。
一方、日本テレビは、国分氏に対し「忖度(そんたく)をしていた」と推測される。でなければ、今回のような問題は、すでに世の中に出ていたはずである。「売れっ子の国分氏だから、この辺は目をつぶろう」といったことが多かったのではなかろうか。私は、日本テレビに対し「事が重篤化する前に、何で対応しなかったのか」と疑問をもつ。報道によれば、国分氏による被害者が複数いるという。この人たちは問題が小さい段階で、上司に相談していたのではないのか。この時点で、国分氏に事態を告げ、対応すべきだったと思う。この時点なら、被害者の氏名を告げる必要もなく、国分氏に「行動の是正」をしてもらえば済む問題だったと思う。
なお、ヒトのなかには「ねたみ」を持つ者がいて、意図的に問題を起こしたり大きくしたりあおったりする者がいる。今回の問題にも、この「ねたみ」が絡んでいないか心配である。
この問題は解決しない
根本的な解決は、情報をすべて公開し、1つひとつ検証することである。上記のように、ヒトは主観的にしか物事を捉えられない。だから、当事者同士であっても、同じ事象の捉え方に大きな差が生じる。今回の問題は、国分氏側からの視点、被害者の視点の両面から検証しなければならない。だから、可能であれば情報公開が必要である。少なくても第三者による検証をすべきだったと思う。ここまでこじれると、当事者間では問題は解決しない。
また、私は、情報を公開しない日本テレビ側に「公開したくない理由」があるとしか思えない。非公開の理由は「被害者保護」である。被害者とされるヒトも、本当にひどい被害を受けたなら、この問題の裁定を公正な第三者に託したほうが得策と考える。現状では、被害者とされるヒトも「本当に被害者なの?」と疑いをかけられてしまう。変な憶測を呼ぶ行為は避けるべきである。
なお、これらの問題は、国分氏、日本テレビ、被害を受けたとされるヒトの問題で、外野がとやかくいう問題ではない。繰り返すが、情報が公開されていない以上、「何があったのか」「何が問題なのか」は、まったくの藪のなかでわからない。外野が、憶測でいうべきことではない。別の問題に発展する場合があるので、注意していただきたい。
問題は日常生活でも起きている
私が学校に勤務していたころも、職場にこの手の問題はあった。ただし、いちいち過剰反応していては、日常生活は送れない。どの程度で妥協するかである。
ハラスメントの被害者になった場合、被害を訴えることはできる。ただし、被害者として訴えれば、当然自分にも事情聴取があるし、その後の対応も求められる。当事者となるのでただでは済まない。また、組織内には独特の空気感があり、問題を訴えても相手にされない場合もあった。現代ならハラスメントであるが、昔は問題ないとされたものも数多くあった。
要するに、そのハラスメントに対し、訴えるべきか、我慢できる範囲か、自分で判断するしかない。また、私が重大なハラスメントと思うことでも、「今の時代でも問題ない」という方もいる。私には、ヒトは理解不能である。
自然と人間
人間社会のどろどろした陰謀術数の社会とは異なり、自然はシンプルである。自然に対しヒトが悪さをすれば、自然は時間をかけて逆襲してくる。ヒトが自然と共存していれば、自然はヒトに恩恵を与える。実に単純である。
私は地質調査で約50年、野山を歩いてきた。野山では、「自然からヒトへさまざまなシグナル」が送られる。このシグナルを受信できるかできないかで、生死が決まる場合がある。自然のなかで通用するかは、「自然が発するシグナルをいかに受信するか」と「それに対する瞬間的な判断と行動」である。人間社会の忖度などは、問題外である。
生死を分けた一例を紹介する。89年4月22日、私は磐梯山のグミ沢にいた。ここはV字状の谷で、両岸は溶岩や地層が丸見えで、地質学の調査に最適の場所であった。なぜ樹木や草が生えていないか、それは「土砂崩落が頻繁に起きている」からである。この日、グミ沢の奥に行くと、頭上には溶岩の絶壁が聳(そび)え、その下で私は調査ノートへの記載に集中していた。一瞬「何か変」と感じ(自然が発したシグナルである)、瞬間的に沢の側壁をよじ登った。「ここまでくれば大丈夫」と思った瞬間、それまでいた場所に、溶岩の塊(直径約10m)が2つ落ちていった。この間、約30秒であった。自然が発したシグナルを感じなければ、私は死んでいた。
自然はこのように素直で正直である。これに対してヒトはどうであろうか。欺瞞(ぎまん)に満ちた社会である。現在、林野火災やクマ出没など多数の問題があるが、しょせんヒトが引き起こした問題である。かつてヒトは、原野を開拓し、そこで生活した。ところが、ヒトは自分たちの都合で、その開拓地を放置した。このため、開拓地の里山は荒れ果て、枯れた木や枝であふれ、大規模な林野火災が起きている。また、放置された開拓地にはクマなどの野生動物が住み着き、放置された野菜や果実をたらふく食べて個体数が増え、ついには都市部にまで進出している。このような問題も、顕著化する前に、必ず自然からシグナルが送られている。このシグナルを、受信できないヒト・受信しても無視してきたヒト・自分勝手な論理で行動するヒトに、基本的な問題がある。
最後に
最近、裁判のやり直し(再審)で、無罪判決が連続して出された。この冤罪裁判で、人生を大きく狂わされた人々がいる。86年に福井市で起きた女子中学生殺害事件では、裁判長が「検察・警察の意図的な証拠隠し」を厳しく糾弾した。この証拠隠しは、「組織防衛の論理」から行われる。今回の問題も、このようにならないことを願う。
今回の問題も含め、現在問題となっている事象の多くは、ヒトの自分勝手な傲慢さから生じている。ヒトは、謙虚に生きられないのであろうか。
サムネイル画像は、闇のなかの黒猫の目。手前は木の枝。
(了)
<プロフィール>
千葉茂樹(ちば・しげき)
福島自然環境研究室代表。1958年生まれ、岩手県一関市出身、福島県猪苗代町在住。専門は火山地質学。2011年の福島原発事故発生により放射性物質汚染の調査を開始。11年、原子力災害現地対策本部アドバイザー。23年、環境放射能除染学会功労賞。論文などは、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPに掲載されている。
原発事故関係の論⽂
磐梯⼭関係の論⽂
ほか、「富士山、可視北端の福島県からの姿」など論文多数。








