米・イスラエルとイラン戦争(20日目)―「真珠湾」奇襲作戦と高市首相の訪米―(後)

 日本ビジネスインテリジェンス協会(BIS、中川十郎理事長)より、(有)エナジー・ジオポリティクス代表・澁谷祐氏による「米・イスラエルとイラン戦争(20日目)―『真珠湾』奇襲作戦と高市首相の訪米―」と題する記事を提供していただいたので共有する。

藤澤治氏:原油はアジアで 110 ドル超の記録更新へ

 定評のあるオイルアナリストの藤澤治氏(FEアソシェイツ)は次の通り予測している。

 「米国とイスラエルが 2 月 28 日にイランを攻撃し、 原油市場は一挙に騰勢を強めた。主なポイントは以下の通りである。

 ―現状と背景: イランのエネルギー施設の破壊やホルムズ海峡の封鎖のため原油価格が急騰している。3 月 18 日指標原油の WTI はバレルあたり 100 ドル、Brent は 110 ドルを突破した。

 ―今後の焦点: 戦火の拡大・長期化が現実となり、ペルシャ湾のエネルギー施設の破壊とトランプ大統領の動向がカギとなる。イラン側の徹底抗戦の構えもあり、先行きの不透明感が強まっている。

 ―市場予測: ゴールドマン・サックスは、輸送途絶が 3 月いっぱい続けば WTI が過去最高の 147 ドルを超える可能性があると指摘する。

 ―藤澤氏の見通し:3 月後半から 4 月にかけてホルムズ海峡の再開時期が最大の変数となるが、日本を含むアジアが購入する主力のサウジのアラビアンライト(AL)原油の 3 月積みの価格はバレルあたり 110 ドルを超え、欧米市場のWTIとBrentの価格水準を上回る見込み。(なお、イラン戦争前日の 2 月 27 日時点では 2 月積みのAL価格は 68.5 ドルであったので、実現すれば 40%アップの記録的な暴騰になる)このためイラン戦争で直接的に影響を受けるのは、アジア諸国であることが明白である」

<コラムニストの眼>油滴山人のコーナー(その1)

 (新・コラムニストの紹介:油滴山人(ペンネーム)氏はグローバル企業の最大手の1つロイヤル・ダッチ・シェル本社のシナリオチームにおいてシナリオ・プランニングの思想や技法をマスターした、我が国を代表するシナリオプランナーの第一人者です。中東イランやウクライナ情勢など混とんとする現代エネルギー世界のパラダイムシフトをクールにウォッチするうえでまたとない機会です。5 回シリーズで登場します=編集者)。

「第一回 シナリオチーム、発足」

 世の中が、さわがしい…余命乏しきが、来し方を振り返れば、心に残る過去が、そこに絡まっていた事柄や、周辺に映っていた風景がよみがえる。個人的な時間の体験とは、空間のことだろう。

 シナリオ運動を回顧するとそんな感覚になる。これから数回、50 有余年前、シェルが第一次オイルショックを予見し、経営陣が戦略的に動き、大成功した、という「伝説」を検証します。シナリオ運動がリサーチャーの仕事ではなく、ビジネスと直結した活動だったことがわかる。1971 年1月から 73 年 5 月にかけての 2 年半の出来事です。

 最初に見取り図を示しましょう。図は3つのタテ枠に分かれます。左側が、「伝説」の周辺の世界情勢で説明を省きます。真ん中が、OPEC対石油メジャー。右がシェルのシナリオ運動の歴史です。今回投稿はシェル社内にシナリオチームがつくられた経緯について書き込みました。

 シェルが、経営には長期的な視点が必要かも、と気づいたきっかけとは――。1964 年、経営幹部がエクソンの幹部と会食。そのときエクソンから「われわれは長期未来検討チームをもっていて、そこではハーマン・カーンの『Year 2000 スタディ』を参考にしている」と聞かされた。

 シェルは長期未来戦略を考える部署をもたなかった。そこで 65 年、企画部門マネージャーのテッド・ニューランドが「長期未来戦略」担当に任命された。ニューランドはやがて、ハーマン・カーンが提唱するシナリオ手法のビジネス戦略への応用、という考えに共鳴する。つまりシェルは、シナリオ手法についてはエクソンを追っていた。付言すれば欧米石油メジャーズの序列では、米系エクソンが絶えず一番に座る。シェルは概ね二番手を続けている。

 別のお話を1つ────。このころシェル社内では 66 年ころから始まった全社計画=UPM(Unified Planning and Control Machinery)が、長期戦略検討に有用なのか、経営層の一部が迷い始めた。UPM はメカニカルな手法で、各国現地会社が原油・天然ガスの生産量や生産コストの見通しや、石油製品需要見通しを本社に報告する。本社はデータ処理して、グループ全体の平均原油生産コストと原油生産量を得る。そして製品需要見通しと突き合わせて全世界レベルの不足原油量/石油製品量を算出する。これを基に5年先までの見通しをつくった。この「プランニングサイクル」と呼ぶ作業を、毎年、繰り返した。

 ところが、60 年代末ころから、幹部たちは未来の“不確実さの予感”に出会う。とりわけ産油国情勢。石油利権の国有化を目指して石油会社と交渉を始め、OPEC を形成して交渉能力を強めんとしていた。

 もう1つの懸念は石油・ガス資源の有限性。1972 年 3 月、ローマクラブの『成長の限界』が出版されて、資源有限性へのビジネスライクな懸念が実は世界大の懸念だ、と知れ渡った。

 さて、シナリオチームの生みの親は英人ジミー・ダビッドソンである。ダビッドソンはシナリオチームをよく社内政治から護り、ついにはシェルグループ全体の経営戦略検討プロセスのなかにシナリオ手法を位置づけた。

 1967 年 7 月1日、本社内にグループプランニング部門が設立され、部門長ダビッドソンが着任。任務は、UPM を見直して新しいやりかたを検討すること。そしてこの人もシナリオ手法の利点に気付いたのだ。

 ダビッドソンは最高経営会議の場で「UPM は機能不全に陥っています。社内全体で 5 年先の将来が、あたかも“確実な”見通しのように扱われています。これは時に重大な問題を起こします」と論じたのだが、会議が終わるや、大幹部のマクファジアンがダビッドソンを掴まえて「UPM を変えること、まかりならん!」と、強く言い渡したのだそうだ。

 マクファジアンは規律に厳しく、数字にも厳しかった。全社経営計画の責任者として UPM に従事する大部隊を率い、後見人の役割を担っていた。ダビッドソンの敵役に廻ったのだった。

 ダビッドソンはあきらめない。最高経営責任者(CEO)たるオランダ人ブローワーと直談判。マクファジアンの下では仕事ができない、と。実はブローワーはシナリオ思想のサポーターだった。社内で戦いを続け、辛抱強く変えていってくれ、と励ます。他の幹部にも非公式対話を仕掛けると、ブローワーの次の CEO 候補たる英人バランも、UPM に限界と欠点を見ていた。

 着任して2年余り、ダビッドソンは 70 年 1 月 5 日の最高経営会議で、ついにマクファジアンから「UPM 以外の計画手法も検討の余地があろう」という言質を引き出した。この会議では、プランニングサイクルの一部を UPM から離脱させる検討を行う、翌年からの実施を検討、という裁可を得た。

 翌 71 年 1 月 5 日の最高経営会議で合意した新経営計画策定システムは、以下の通りである。

「最初の 2 年間、すなわち 71 年春のプランニングサイクルのうち、72/73 年については、すでに部分的にコミットしているところもあり、変更は好ましからず。この期間は財務部門が各種指標に基づいて実行計画をコントロールすべし。他方でグループプランニング部門は、ビジネス環境が不確実性を増す 3 年目以降、すなわち 74 年以降のリスクマネジメントをシナリオ手法で引き受けられたい」

 こうして 1971 年 1 月、シナリオチームが発足した。チームのヘッドが有名なフランス人ピエール・ヴァック。シェルフランス社の経営企画担当役員からの異動だった。

(次回に続く)

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