なぜ博多は「島」と呼ばれたのか ── 中世都市博多の実像に迫る

 NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会が主催する「第17期 福岡歴史観光市民大学」の第2回講座が開催された。今回は「記録、文学、美術工芸資料から見る中世博多」と題し、九州大学大学院比較社会文化研究院の伊藤幸司教授が登壇した。伊藤氏は、2026年3月に刊行された『新修福岡市史』資料編中世③の編集責任を務めた研究者である。講座では、同書に収録された史料を手がかりに、外国史料に残る「博多島」の呼称、宋人による国際交易、禅僧たちの文化活動、海を越えて移動した梵鐘などを紹介。中世博多が東アジアに開かれた国際都市であった実像を読み解いた。

史料を手がかりに中世博多の実像を語る伊藤幸司教授
史料を手がかりに中世博多の実像を語る伊藤幸司教授

史料から歴史を読み解く

 伊藤氏が講座の冒頭で強調したのは、歴史学は史料に基づく学問であるという点だった。テレビの時代劇や大河ドラマ、歴史小説は、史実を下敷きにしながらもフィクションを交えて時代を描く。一方、歴史研究者が記す一文には、必ず根拠となる史料が存在する。この点において、歴史学は歴史小説とは大きく異なる。

 文献史料は大きく、差出人と受取人をもつ古文書、日記などの記録、漢籍・仏典などの典籍に分けられる。さらに、石や金属に刻まれた金石文も重要な歴史史料となる。

 こうした史料を収集し、編纂する営みは、東アジアに共通する知的伝統である。中国の地方誌、日本古代の風土記、江戸期に各藩で進められた地誌編纂もその流れにある。福岡藩における貝原益軒の『筑前国続風土記』や、青柳種信による書写事業も、地域の歴史を後世に伝える重要な役割を果たした。江戸時代に残っていた古文書を彼らが写し取ったからこそ、今日では原本が失われた史料の内容を知ることができる。

 伊藤氏は、自らが編集責任を務めた『新修福岡市史』資料編中世③について、「未来への歴史研究のための種まき」と位置づけた。通史編がその時代の研究成果をまとめるものであるのに対し、資料編は未来の研究者に材料を手渡すものだという。この視点は、講義全体を貫く基調となった。

外国史料に残る「博多島」

 講義でまず取り上げられたのが、「博多は島だった」という視点である。中国や朝鮮の史料には、「博多島」といった表記が繰り返し登場する。

 伊藤氏は、かつてこうした表記を「外国人による日本地理の誤認」と考えていた。しかし後に、それは誤りではなく、外国人が当時の博多の地形を正確に把握したうえで「島」と呼んでいたのだと考えを改めたという。

 当時の博多は、那珂川と御笠川の旧流路という2本の川の河口部に堆積した砂丘上に発達した町であった。北は海、東は湿地帯に囲まれ、鎌倉時代にはひょうたん型の砂丘島を形成していた。現在の地下鉄呉服町駅付近が、そのくびれにあたる。

 16世紀半ば過ぎ、御笠川の流路が現在のように変えられ、旧河道は堀として利用された。これにより、博多は環濠都市としての性格を強めていく。しかし、かつての地形の記憶は現在の町にも残る。明治通りは低く、大博通りと昭和通りの交差点付近は高い。博多小学校の建設時には、地下から鎌倉時代の元寇防塁が出土した。防塁の遺構は、かつての海岸線を示す重要な手がかりとなっている。

 現在の博多祇園山笠が舞台とする、御笠川と那珂川に挟まれ、JR博多駅と地下鉄祇園駅の間、昭和通りより海側の一帯こそ、外国人が「博多島」と呼んだ場所であった。

宋人が築いた国際都市

 中世博多を語るうえで欠かせないのが、中国大陸出身の貿易商人、いわゆる宋人の存在である。彼らが博多島に築いた「博多津唐房」は、中世のチャイナタウンともいえる空間であり、都市博多の本格的な発展の端緒となった。

 その痕跡は、中国側にも残されている。中国浙江省寧波市の天一閣は、明代に創建された私設の蔵書楼で、現在は寧波博物館と合併して「天一閣博物院」として保存されている。その敷地内にある碑林には、博多に関わる3つの石碑が伝わる。碑林とは、地域から出土した石碑を集めて保存したものである。そのなかには、乾道3年、すなわち1167年の年号を刻む石碑が含まれていた。

 碑文には「日本国太宰府博多津居住弟子丁淵」の名が確認できる。丁淵は、寧波の寺院の参詣路を一丈(約3m)舗装する費用として、銭10貫文を寄進した博多在住の宋人である。このほかにも、博多に関わる宋人の名を刻んだ石碑が同じ碑林に伝わっており、いずれも寧波の寺院への寄進者として名を残していた。

 博多に住む宋人が、故郷である中国の寺院に寄進する。この事実は、信仰と経済が海を越えて結びついていたことを示している。博多に関する史料は、博多だけに残っているわけではない。海の向こうにこそ、失われた博多の姿を伝える手がかりが残されているのである。

中世博多の文化圏

 貿易都市であった博多は、同時に文化の都市でもあった。伊藤氏が紹介したのは、大阪の正木美術館が所蔵する「山水図」である。描いたのは周文と伝えられる。周文は室町幕府の御用絵師で、雪舟の師にあたるとされる人物である。ただし、真筆と確定された作品はなく、作品には「伝」を冠して呼ばれている。

 室町時代、京都を中心に「詩画軸」という文化が流行した。水墨画に複数の禅僧が漢詩文を書き寄せるもので、その行為を著賛という。正木美術館蔵の山水図には、無涯亮倪(むがい りょうげい/妙楽寺)、太樸処淳(たいぼく しょじゅん/承天寺)、従隗(じゅうかい/承天寺)という3人の禅僧が著賛している。3人はいずれも博多の妙楽寺、承天寺に関わる僧であり、この著賛が博多で行われたことを示す確かな証拠となる。

 注目されるのは、従隗の名乗りである。そこには「関西従隗」と記されている。この「関西」は、現代の近畿地方を指すのではない。赤間関、現在の下関より西、すなわち九州を意味する。当時の言葉と現代語の意味の違いを物語る好例である。

 また、この山水図には朝鮮画の影響も指摘されている。京都の文化を単に受け入れただけではなく、朝鮮半島との交流も背景にもつ、博多独自の禅宗文化圏が存在していたことを示している。

 文芸活動の広がりは、連歌の史料にも表れる。連歌師の宗祇は、文明12年、1480年9月28日に博多の龍宮寺に滞在し、「博多百韻」を興行した。参加者には龍宮寺の住持、大内氏家臣の杉弘相、宗祇の弟子である宗長、さらに当時数え12歳の空吟の弟子・鶴寿(後の龍宮寺住持)まで名を連ねていた。

 原本は享保17年、1732年の龍宮寺火災で焼失したが、写本によって内容が今日まで伝えられている。写本の存在が、失われた文化活動の記憶を後世につないだのである。

 歌人・正広(しょうこう)による「松下集(しょうかしゅう)」には、筥崎の松原、生の松原、志賀島の文殊堂など、博多周辺の風景が詠まれている。

戦国の権勢と一口の梵鐘

 博多の聖福寺には、朝鮮半島の高麗で鋳造された梵鐘(ぼんしょう)が伝わる。頂部の音筒、乳廓に配された乳、天女のレリーフなどは朝鮮鐘特有の意匠であり、日本の梵鐘とは異なる造形を備えている。

 この鐘に刻まれた追銘、すなわち後世に追加された銘文をたどると、一口の鐘が数百年にわたり各地を移動した歴史が浮かび上がる。

 文亀2年、1502年には筑前国志摩郡の平等寺に奉納された。その後、天文3年、1534年には山口の本国寺へ移った。大内氏関係者による奪取とみられる。天文6年、1537年には大内義隆が平等寺へ返還し、天正17年、1589年には小早川隆景が聖福寺へ寄進した。

 志摩郡は当時、豊後の大友氏の支配下にあり、山口の大内氏と激しく争っていた。その過程で大内方の軍が平等寺の鐘を持ち去り、山口の本国寺に据えたと考えられる。しかし3年後、大内義隆はこの鐘を平等寺に返した。豊臣秀吉の九州平定後、筑前を得た小早川隆景によって、鐘は博多の聖福寺に寄進され、現在の地にたどり着いた。

 伊藤氏は「梵鐘は結構、移動する」と語った。山口の防府天満宮には、鎌倉時代の文応2年、1261年に博多在住の宋人が、父の菩提を弔うために油山の寺へ寄進した梵鐘が伝わる。

 大内氏滅亡後、山口を治めた毛利氏が大内氏ゆかりの遺産を各地に寄贈した結果、名品が九州側に移った例も少なくない。北部九州には、日本鐘と朝鮮鐘の意匠を融合させた「和韓混淆鐘(わかんこんこうしょう)」も残る。これらの多くは、筑前芦屋の鋳物師の作である。

新史料が明かす博多商人・奥野氏

 『新修福岡市史』資料編中世③には、伊藤氏が新たに掘り起こした史料も収録されている。その1つが、横川景三(おうせん けいさん)の漢詩文集『補庵京華続集(ほあんけいかぞくしゅう)』に登場する博多商人、奥野直次である。

 奥野は越前出身の商人で、博多に移住し、日明・日朝貿易で成功を収めた人物とされる。室町幕府6代将軍の足利義教は、九州の富裕商人4人を京都へ強制移住させ、京都経済に取り込もうとした。その筆頭に挙げられたのが奥野直次であった。

 従来ほとんど知られていなかった博多商人の存在が、1点の史料の発見によって歴史の表舞台に現れた。史料を掘り起こすことの意義を示す象徴的な事例である。

史料が照らす中世博多の厚み

 外国史料が伝える「博多島」の呼称、寧波の石碑が示す宋人の寄進、禅僧の詩画軸に映る文化圏、龍宮寺で興行された連歌、聖福寺の梵鐘がたどった来歴、そして新史料が明かした豪商の姿。講義で紹介された史料は一見すると断片的だが、それぞれが東アジアと京都を結ぶ経済、文化、宗教のネットワークのなかに博多を位置づけるものだった。

 中世博多は、単なる貿易港ではなかった。海を越えて人、物、信仰が行き交い、京都に匹敵する文化的営みが展開された国際都市であった。その実像は、博多の町のなかだけに残っているわけではない。中国、朝鮮半島、山口、京都など、各地に散在する史料を丹念に集めて読み解くことで、初めて立体的に浮かび上がる。

 『新修福岡市史』資料編中世③は、そうした作業の結晶であり、未来の人びとに向けた史料の集積でもある。会場の受講者は伊藤氏の講義に熱心に耳を傾け、講義は予定時間を超える充実した内容となった。

 福岡の歴史は、時代ごとに姿を変えながら重なり合っている。市民が学び、歩き、語り継ぐことで、その厚みはさらに広がっていく。

【児玉崇】

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