打ち捨てられた田舎、私の故郷(1)今も石破総理

福島自然環境研究室 千葉茂樹

高市政権から見捨てられた田舎─今も石破総理─

 高市政権は、こんな田舎には到着していない。今も石破総理・総裁のままである。色あせた自由民主党のポスターが立っている(画像01)。そのうち、この石破総理・総裁の姿も風雨にさらされて見えなくなるであろう。まさに打ち捨てられた田舎の象徴である。

画像01

 ポスターのある場所は、私が卒業した小学校と中学校があった交差点、かつての集落の繁華街。私の子どものころは活気であふれていた。子どもの声が絶えなかった。今は昔の話である。 

故郷の今昔

 私の故郷は「岩手県一関市花泉町永井」である。場所は、一関市中心部から南東へ約20km、旧花泉町役場から南東に約6kmである。2005年に一関市と合併した。花泉町は財政的に黒字の町で、一関市と合併してもメリットはなかったはずである。なぜ合併したのか疑問である。さらに遡れば、1955~56年にかけて7つの村が合併し花泉町となった。

 私の故郷は、このなかの1つ「永井村の役場があった集落」で、国道342号線(秋田県横手・一関市・宮城県登米市、延長上に石巻市(国道45号線))沿いである。経済的には宮城県北とのつながりが大きい。なお、戦前の41年まで、私の家の前に永井村役場があった(火災で全焼し移転)。 

 私の子どものころ、65(昭和40)年頃は、この集落が1つの経済圏をつくっていた。映画館と旅館、タクシー営業所まであった。詳しく書けば、公共施設として元役場(支所)、診療所、駐在所(画像02)、保育園、小学校、中学校、郵便局、農協など、大抵のものはあった。商業施設も魚屋3軒、豆腐屋2軒、映画館1軒、理髪店2軒、パーマ屋2軒、雑貨屋5軒、電気店1軒、自転車屋2軒、食堂3軒、団子屋1軒、衣料品店2軒、薬局1軒、旅館1軒、タクシーの営業所1軒と何でもあった。 70年代にはガソリンスタンドが2軒できた。

画像02

 2026年はといえば、ほとんど消えている。公共施設で残っているのは郵便局のみで、商業施設は雑貨屋1軒、理髪店1軒、パーマ屋1軒のみである。ガソリンスタンドもなくなった。道沿いの人家を見れば住んでいる家は約半数になり、その住人も大半が老人である。次から次へと亡くなるか老人ホームへ行き、どんどん空き家になっている。また、放置された家も多く、倒壊寸前の家もある。

食堂もなくなった

画像03

 画像03は倒壊寸前の元食堂である。私の子どもの頃は、昼は中華そば屋、夜は居酒屋として繁盛していた。1985年頃に店主が亡くなり、お子さんは別の場所に住んでいる。隣の家は親戚で、この方に譲ったと聞いている。その方ももう住んでいない。2軒とも放置されて倒壊寸前である。あまりの惨状に私は一関市役所に連絡した。係の方がその日のうちに来て現状を確認していた。「個人の所有物なので、役所として手出しはできない」との話であった。

 画像04は1980~2000年頃、連日盛況だったスナックで、私の家の2軒東隣である。当時は、夜は遠方、特に宮城県北からの客が来ていた。連夜、カラオケでご当地ソング「神戸一郎 米山の女」が聞こえてきた。この店は15年頃まで営業していたが、経営者の体調不良で閉店した。その後は放置されている。まさに「夢の跡」である。

画像04

 余談であるが私の父は、この店に毎日行って昼食を食べていた。母は1986年に死去し、父は2011年まで25年間1人で暮らしていた。

屋根を貫く竹─さびれ行く田舎の象徴─

 画像05は、私の南東隣の家の惨状である。居住していた老婆は、1年半前に老人施設に入所し、管理する人はいない。今年、孟宗竹が物置に侵入し、屋根を突き破った。

 この竹は1965年頃、西隣の爺さんが植えたものである。当時の農家では、タケノコを採るため竹を植えていた。植えられた当時は、竹にとって生育環境が悪かったらしく、80年頃までは細々と生きていた。しかし、85年頃から爆発的に繁殖し、今では集落の南側に「東西約1.5km・南北約500mの範囲」に分布し、今も増殖し続けている。

画像05

 私の家の敷地にも父の晩年(2005~2011年)に、この竹が侵入してきた。父は1985年頃に竹の増殖が始まると、侵入防止で土地の境に「トタン板」を埋め込んでいた。しかし、経年劣化で朽ちたのであろう。私は帰郷のたびに、侵入した地下茎を切断してすべて掘り出した。現在は、敷地内はもちろん、隣家との境を越して竹を切り(隣人から許可済み)、これ以上侵入しないようにしている。

 なお、私の子どもの頃、竹林はタケノコ目的でしっかり管理されていた。また、成長した竹を竹細工に使っていた。集落では「竹のザルやカゴ」が売られていた。その後、高度経済成長とともにタケノコも採られなくなり、竹製品はプラスチック製品に取って代わられた。放置された竹は、どんどん増殖していった。これが現状である。

集落を生んだ井戸

 集落のある台地は「軽石層と粘土層の互層」からできている。このため、極めて良質な水が大量に出る。また、軽石の白い断崖がいたるところにあった。これから、この集落は「白い崖」「しらがけ」、これがなまって「しらかけ」と呼ばれた。その崖も人為的な削剥でほとんどなくなった。私が幼少期に遊んだ小高い丘も国道342号線のバイパス工事で削り取られてなくなった。

 なお、この集落は江戸時代にはなかった。江戸時代は、一関と石巻を結ぶ「北西―南東の街道(一関街道)」が通っていただけである。この道を松尾芭蕉が「奥の細道」で通ったとされる。明治の初めに、この道路と直交する「宮城県の石越町と岩手県の北上川の船場を結ぶ新道」ができた。これで交通の要所となり、また良質の水が大量に湧くことから、集落となった。

 私の家にも井戸があったが、深さ約5mできれいな水が出ていた。また、地表に水が湧き出ている所もあった。画像06は、今も集落に残る共同井戸である。昔は共同井戸がいくつかあったが、残っているのはここだけである。ただし、画像の手動ポンプは内部の革(パッキン)が悪くなって、今は水を汲み上げられない。

画像06

田舎の道─江戸期の面影─

 画像07は何の変哲もない田んぼ道である。ただし、この道は「江戸期の道」である。江戸期には「北上川の船場と田園地帯を結ぶ重要な道」であった。私は父に教えられた。今では、この道の由来を知る人はほとんどいない。

 また、私の子どものころは、集落には網の目状の細道がいっぱいあり、それを使って遊んでいた。そんな細道も今はほとんど消えている。集落の衰退そのものである。

画像07

 次回は、「自然環境の悪化」について書かせていただく。

(つづく)


<プロフィール>
千葉茂樹
(ちば・しげき)
千葉茂樹氏(福島自然環境研究室)福島自然環境研究室代表。1958年生まれ、岩手県一関市出身、福島県猪苗代町在住。専門は火山地質学。2011年の福島原発事故発生により放射性物質汚染の調査を開始。11年、原子力災害現地対策本部アドバイザー。23年、環境放射能除染学会功労賞。論文などは、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPに掲載されている。
原発事故関係の論⽂
磐梯⼭関係の論⽂
ほか、「富士山、可視北端の福島県からの姿」など論文多数。

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