会社を乗っ取った元サニックス創業メンバー(前)~頓挫した廃プラ事業
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福岡市博多区金隈で産廃処分場を運営する(株)和幸商会(本社:福岡市博多区金隈、箭内伊和男代表)だが、現在はすでに会社としては稼働していないとも聞かれている。かつては、解体業でも活発な動きを見せていた同社に何があったのか。関係者への取材で見えてきたのは、元サニックス創業メンバーの乗っ取り行為だった。業績不振から会社を立て直した立役者を追い出し、経営権を握った箭内氏に待っていたのは創業者の固い誓いだった。
業績回復の最中にナンバー2退職
(株)和幸商会は本田孝一氏が1962年1月に創業したのがはじまり。72年6月に法人化し、福岡市で解体工事、および産業廃棄物の収集運搬および処分業を手がけていた。
関係者によると、売上高のピークは2007年から08年にかけて、3億円で推移。あることがきっかけで経営が苦しい時期もあり、一時は借入金が4億円以上も膨らんでいたというが、数年かけて経営の立て直しに成功。借入を圧縮し、売上ピーク時の08年にはほぼ完済するまで立ち直っていた。
そんなときである。会社立て直しの主要メンバーだった、実質ナンバー2のA氏が会社を去ることになった。困難を乗り越え、これからというときである。自ら退職を申し出たといわれるが、本人の意志ではないようだった。伏線があった。A氏にとっては、長い戦いの始まりだったのだ。
社員が大金を持って失踪
過去を振り返る前に、現代表の箭内氏の人物像に触れておこう。箭内氏はサニックス創業時の主要メンバーの一人。一時は常務取締役まで登りつめた人物だったようだ。そして、箭内氏を中心に考案されたのが、当時大問題となった「シロアリ商法」だ。
処分を受けたのは有名な話だが、その一方で経営の多角化にも着手。その一環が廃プラスチック(以下、廃プラ)事業だった。和幸商会創業者と親族関係になっていた箭内氏はサニックス時代からコンクリの廃材処分などを和幸商会に仕事を頼んでいた間柄だった。
元サニックスの箭内氏が産廃会社で何をしようとしていたのか。サニックスは再利用を目的に、全国的に廃プラを集めていた時期があった。しかし、研究の甘さのためか、事業としては成立せず。収集した廃プラを活用できないまま、最終的には産業廃棄物として、処理をしなければならなかった。
困り果てた箭内氏は和幸商会に処分を依頼。箭内氏の部下は社内に産廃事業部を作り、サニックスから廃プラを入れ始めた。産廃事業部単独で、人を増やし、機材を和幸商会本体から調達、経費などは本社持ちにするなど、まさにやりたい放題。
サニックスからの処理費用として数千万、そして他の産廃関連の入金も、本社とは別に産廃事業部として、開設した銀行口座に集約。お金の入り口だけ設けて、貯まった瞬間、その部下は集まった約7,000万円を持って姿を消したという。
大金を失った和幸商会の経営は大きく傾いた。これが冒頭にある、経営が苦しくなった要因だった。それでも会社をたたむわけにはいかない。「寝る間も惜しんで、死に物狂いで」――表現するのは簡単だが、まさにそのような意気込みで毎日を過ごしていたに違いない。徐々に業績は持ち直していった。
(つづく)
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