私のワンゲル時代(2)
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夏合宿は、飯豊連峰に行く男性ばかりのパートに選ばれ、トレーニングと合宿費用捻出のバイトに明け暮れました。その末に、やっと大型のキスリングザックを、先輩の紹介でしかも月賦で購入しました。
登山靴、シュラフは友人から借用、制服は木綿製のお揃いの紺色、ズボンは学生服。資金に余裕のある先輩部員は当時のトレンカ(当時のスキーズボン)で、足が長く見えてカッコよかったです。
博多駅は旧博多駅から今の場所に移転したばかりでした。未舗装の道路が残り、旧博多駅から新博多駅への移転。新しい福岡の街作りが新しい段階に移行しようとしていた時代でした。
そんな新博多駅で鳥栖発京都行の鈍行列車に乗り込み、夏合宿が始まりました。当時の国鉄は片道100キロを超えると学割運賃として半額になる仕組みがありました。乗車距離が短いときは、わざわざ迂回をしてまで100キロを超えるように工夫して学割切符を手に入れたものです。40人近いワンゲル部員が、キスリングと薄汚い山姿、山靴に身を包んで博多駅に集合しました。列車のひと車両まるまる、西南学院大学のワンゲルの荷物と男女の汗臭い人間で占領していた格好です。新人1年生は初めての夏合宿への期待と興奮で眠れない夜行列車の旅となりました。男性も女性も大胆に足を広げ、山ズボン姿で長い夜を過ごします。深夜の名古屋で福岡の知人からジュースの差し入れ有り。目覚めていた先輩たちに「こっちへよこせ」と言われ、お裾分け。
早朝の上野駅で各パートに分かれ、それぞれの列車で目的地へと向かいました。私たち飯豊連峰行きは新潟までの長距離列車です。叔父がいる大宮駅で握り飯の差し入れをもらう予定が、新潟地震の影響でダイヤが変更になっていました。携帯電話どころか列車内に電話もない時代ですから叔父宅へ連絡のしようもなく、差し入れは車窓から夢として流れ行きました。私はいつまでも大宮駅のホームをながめていました。後で聞いた話だと、叔父家族は総出で握り飯を作ってホームで待っていてくれたそうです。
そんな、こんなで新潟駅から飯豊方面へバスで行き、登山口近くの民家で泊まった覚えがあります。その民家は地震で壁が壊れていました。最初のテント泊は山小屋のテン場(テントを張るように指定された場所)でした。近くには露天風呂があり、川ではゴーゴーと渦巻く清流が流れていました。露店風呂での入浴は至福のひと時でした。山深い山小屋の親父がしゃべる越後弁はどうにもわからなかったのですが、どうも蜂がいるので気をつけろと言っているようでした。
(つづく)
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