2024年12月19日( 木 )

失われた古代九州王朝の歴史(4)

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 「唐書」には宗像~沖の島などただの一文字も出てきませんが、ここで大変驚くべきことがあります。
 「隋書」の記述の中に「倭国の楽器に五弦の琴がある」とあります。奈良の正倉院には六弦の琴がありますが、五弦の琴はありません。
 しかし驚くべきことに、宗像大社の宝物館には、沖ノ島で発見された「五弦の琴」があるのです、これは非常に大きな事実ですが、ここに触れた議論はほとんどありません。

 中国の史書に現れる日本の記述を年代順にみて行くと。

(1)紀元前145年ごろ:「史記」前漢・司馬遷…徐福の記述。
(2)1世紀ごろ→「漢書」…楽浪海中に倭人ありの記述。
(3)西暦57年頃→「後漢書・東夷伝」…「漢倭奴国王」の金印の記述。
(4)239年頃→「三国志・魏志倭人伝」晋・陳寿…「親魏倭王」の金印。
(5)「晋書」
(6)「宋書」
(7)「南斎書」
(8)「梁書」…卑弥呼の国から4,000里、裸国・黒歯国の記述。
(9)「陳書」
  ~中略~
(13)600年頃→「隋書」…「日出づる処の天子~」・「阿蘇山有り」「官位」。
(16)670年頃→「旧唐書」…倭人とは古の「倭奴国」なり、更めて日本と号す。

 まず紀元前145年、司馬遷の「史記」においては、秦の始皇帝と徐福についての事柄が記述されています。
 日本史はここから始まります、「日本書紀」もこれを利用し、皇紀2600年の始まりがそうでしょう。
この「史記」の記述は古代日本の、最も重要な出来事の骨格をなす物なのです、しかし現代日本史では、ただの伝説と扱われています。

 「史記」は、中国正史で第一級の史書で、秦の始皇帝と徐福渡来の詳しく記載された書籍です。
徐福は斉の国の生まれで、平沢広原を目指し出航するのは紀元前209年~219年、東渡時は36歳~45歳位と記されています。
 司馬遷がこの書を記したのが、徐福が出航した約100年後になります。

 徐福は、不老不死の薬を探し出す約束で、始皇帝を騙します。

 徐福渡来の伝説は、紀元前三世紀。この時期と、日本が狩猟民族の縄文時代から、稲作を取り入れた弥生時代へと急変する変動期とが符合するのはなぜでしょうか。

(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】

<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。

 
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