中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(11)~中内氏が福岡に遺したもの
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店のことより地域を優先
1995(平成7)年1月17日午前5時46分52秒、未曽有の巨大地震が発生。「阪神・淡路大震災」である。その数分後、地震発生のニュースが流れ、時間の経過とともに被害の大きさが明らかになっていった。近畿地方――とくに神戸で大きな被害が出ているようだった。国も対策本部を設置し、情報の収集と対策を講じた。
ダイエーは、国より3時間も前に対策本部を設置し、素早く動いた。地震の発生から1時間後には、本社に災害対策本部を設置。高速道路や電車が使えないため、ヘリコプターで人や物資を現地に送っていった。また、NECから移動式の衛星通信機材を借りて、東京や福岡からも応援部隊を投入。さらに海からも物資を運ぶなど、でき得る限りの手段を使い、全国から救援物資を神戸へと送った。そして、震災後の品不足を背景とした便乗値上げが横行するなか、「スーパーはライフラインである」という中内氏の哲学の下、ダイエーは生活必需品を“いつも通りの値段”で販売。この“いつも通りの商品”が“いつも通りの価格”で“いつも通り手に入る”という当たり前のことに、商売人としてのダイエー・中内氏の矜持が表れている。
また、被災地に入った中内氏や幹部は、地震で壊れた街の惨状を目の当たりにする。ダイエーの店舗も震災によって大きな被害を受けていたが、それでも人々のために店を開け、集めた商品を並べた。中内氏が懸念していたのは、地震によって破壊された街から、明かりや活気が消えてしまうこと。そのため、「開けられない店も明かりをつけろ。明かりがなければ街は死んでしまう」――と、商品がなくても、明かりがつく店には照明だけでも付けるよう指示した。
こうして中内氏は、現地で陣頭指揮を執りながら、地元の人たちに元気を与えようと奮闘。震災発生後の1週間で、被災地のダイエー9店舗、ローソン245店舗を開けた。店舗スタッフも、自宅が被災していても店に出て、人々に声をかけた。
ダイエーのこうした迅速で力強い対応は多くの人々からの賞賛を集め、「あのときのダイエーへの恩は忘れない」と、今なお語り継がれている。しかし一方で、この震災によりダイエー自体も、400億円にも上る巨額の損害を受け、その結果、同年2月期の決算では、上場以来初となる大赤字を余儀なくされた。そしてこれを機に、ダイエーの経営は急速に悪化していくことになる。
その後、さまざまな再建策を練るものの、一度傾きかけた“巨体”をもち上げることは難しく、関連事業を売却するなどして再建を図っていたものの、2015年、ついにイオンに吸収されることになった。初年度900万人が来場
ここに、興味深い資料がある。(公財)九州経済調査協会が発行した『九州経済調査月報』(94年5月号)で、「福岡ドームの地域経済への影響」(八尋和郎、可峯隆義)と題し、福岡ドームが開業してからの1年を振り返り、その効果などについて詳しく検証している。
福岡ドームが完成した93年のダイエーホークスのホームでの観客動員数は、246万2,000人でパ・リーグトップの実績を上げている。前年の動員数が約167万7,000人だったので、78万5,000人増、率にして46.8%の増加となった。この年のパ・リーグは、ホークス以外の全球団が前年割れの状態にありながら、ホークスだけが動員数を増やした。しかも、この年のホークスの成績はリーグ最下位。まさにドーム効果といえるだろう。
その後、なかなか優勝争いに絡めない時期が続いたため、観客動員数は伸び悩んでいた。だが、99年に日本シリーズを制して待望の日本一となり、以降、強いホークスができ上がっていくと、それに呼応するかのように動員数も上昇を続け、01年には300万人を突破するという驚異的な伸びを見せた。
話をホーム開業年に戻すと、ホークス以外のプロ野球開催まで入れると500万人、コンサートなどの音楽イベント、展示会・集会などのイベントまで含めると、イベント時の入場者数は約500万人に上った。重複する部分もあるだろうが、ドームの付帯施設の利用者が400万人、イベントでの動員数と合わせると1年間に900万人が、何らかのかたちで福岡ドームに足を運んだことになる。
海外有名アーティストも来福
ほかのイベントでも、重要な役割をはたした。コンサートでは37万2,000人を動員。国内のアーティストだけでなく、海外からはマイケルジャクソンが9月に2日間のコンサートを開催し、大変な話題を集めた。翌94年12月にはフランク・シナトラとナタリー・コールがコンサートを開催。とくにフランク・シナトラは、この福岡ドームでのコンサートが日本での最後の公演となった。
その後も、国内の有名アーティストを始め、ポール・マッカートニーやマドンナ、ローリング・ストーンズ、ホイットニー・ヒューストンといった海外の大物アーティストが福岡ドームでのコンサートを次々と開催。現在も、多くのアーティストがドームでコンサートを開催している。
たしかに、開閉式ドームの建設には莫大な費用がかかったうえ、維持費もかかる。だがそれだけに、ほかの施設にはない唯一無二の魅力もある。公演を行ってきたさまざまなアーティストにとっても、魅力ある会場と映ったであろうことは間違いない。
イベントでも「1995年夏季ユニバーシアード」の開会・閉会式や「福岡国際らん展」、新日本プロレスが主催する「レスリングどんたく in 福岡ドーム」などが開催された。また、95年公開の映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』(監督:金子修介)では、重要な場面に福岡ドームが使われるなど、福岡を象徴する施設として取り上げられている。
開業1年の経済効果は659億円
運営会社のツインドームシティの年間売上は190億円だが、ドームが生み出した「場内需要」と、交通費と宿泊代の「場外需要」を合わせると、241億円に上ると計算している。
「場内需要」とはイベント収入や来場者が場内で消費した飲食代などで、「場外需要」はドームとの行き来で利用するバスや地下鉄、タクシーなどの交通費と宿泊費などとされている。「場内需要」の内訳は、イベント需要が110億円、飲食・物販購入が69億円、そのほか(広告料、スーパーボックス利用料など)で44億円の計223億円。場内には、居酒屋「鷹正」などツインドームシティが直接経営する飲食店のほかに、ファストフード店など33店舗。ほかに、売り子といわれるスタッフが販売するビールや弁当の売上があり、弁当で50万食、ビールで110万杯、ハンバーガーで25万個を販売している。
一方の「場外需要」の内訳は、交通費が12億円、宿泊費が6億円の計18億円となっている。
具体的には、場外需要の交通費部門では、公的交通機関を利用したのは390万人。そのうち、西鉄バスが196万人、地下鉄で146万人を運んだことになる。タクシーはドームへの入出を合わせて19万台の稼働があったと推計している。
宿泊では、8社の旅行代理店から聞き取り調査を実施。それによると、8社の実績だけでプロ野球関係が14万5,000人。そのうち8割が福岡および近隣の県から、2割がそれ以外からの客であった。これらのうち2割が宿泊したと計算すると、2万9,000人の宿泊需要が発生している。野球以外のコンサートやプロレスなどのイベントでは、宿泊率は14%程度となり、宿泊需要は6万9,000人。野球と合わせると9万8,000人の需要を生み出したことになる。ほかの旅行代理店を利用した客や直接宿泊の手配をした客などを入れると、さらに需要は大きかったと考えられる。
つまり、球場に人が集まれば集まるだけ、地元への経済波及効果は大きくなることを意味する。こうした場内・場外の需要以外にも、経済波及効果は表れている。たとえば、福岡ドームでイベントを開催すると、会場の設営から警備、清掃などの人材需要が発生する。集客のための広告宣伝などの需要も増える。飲食業の需要が増加すれば、食材や飲料の需要も増えることになる。福岡ドームに人が集まることで、場内や場外で需要が生まれ、そこへ原材料やサービスに対する需要も増えることになり、さらに経済効果を高めることになる。
結局、福岡ドームができたことによる経済波及効果はどのくらいであったのか――。同レポートは、ドーム関連の直接効果が約241億円。さらに波及効果では福岡市内に267億円、福岡市外に150億円を誘発しており、直接効果と波及効果を入れると約659億円の経済効果が生まれたことになると分析している。
大型イベント運営ノウハウが蓄積できる
雇用面で見ると、福岡市にサービス業で約2,440人、全産業では4,790人の雇用を生み出した(85年の福岡市産業関連表より九経調が試算)。これほどの雇用需要を引き起こしているのだ。
雇用が生まれれば、所得がさまざまな産業に支出され、福岡経済に多大な貢献をはたす。ドーム関連で売上が上がれば、企業や商店の景気は良くなり、福岡市などの自治体の税収も増える。税収が増えれば、インフラなど公共サービスの充実が盛んになり、福岡市はさらに魅力的な街となる。こうした好循環を生み出すことにつながるのだ。
また同レポートでは、5万人規模を収容できる大型施設ができたインパクトは大きいと伝えている。それまでは福岡を始め、九州には大型の施設がなく、大規模なイベントなどの開催が難しいという問題を抱えていた。しかし、福岡ドームの誕生によって、この問題は解消。国内だけでなく海外に対しても、大型イベントの誘致が可能になった。
大型施設で使用する機材のほか、それまで東京や大阪が中心だった大型イベントを運営する人材も集まるようになった。こうして、大型イベント運営に必要なノウハウを地元に蓄積できる土壌が整ったことは大きい。優勝すれば約400億円
そしてもちろん、地元球団であるホークスが優勝すれば、さらに大きな経済効果を生む。ホークスが日本一に輝いた際の経済効果について、試算されたものがある。日本シリーズのチケット代や交通費、宿泊費、飲食代などに加え、日本シリーズの観戦に訪れた観客が消費したものと優勝記念セールなどの売上、パレードなどの優勝記念行事関係での需要など。クライマックスシリーズが導入された07年以降は、クライマックス関連の需要も含まれる。
それらの試算によるとホークス優勝による経済波及効果は、99年の優勝にからんだ数字は不明だが、03年にリーグ優勝をはたした後、日本一になった場合の経済効果を福岡県は約417億円と試算している。ソフトバンクホークスになって以降は、11年は388億円、14年は404億円、15年は365億円、17年は404億円と、ホークスの優勝が地元経済に多大な波及効果をもたらしていることがわかる。
経済波及効果については、電通九州が03年10月に出した試算によると、福岡ダイエーホークスが、 福岡市に本拠地を移した89年から03年までの15年間に、九州地域にもたらした経済効果を計1兆4,000億円と試算している。この数字は、観客動員数を基に、チケット代や宿泊費、交通費、飲食費、優勝時の経済効果などから算出したもので、観戦に直接関係しない飲食などを含まないため、実際には経済効果はさらに大きいと考えられる。
国際化に大きく貢献
ドームやホテルなどができたことで、地行浜エリアは新たな観光名所として人を集めるようになった。参考までに、福岡ドームおよびシーホークホテル&リゾートの開業と人の動きとが、どのように関連しているかを見てみよう。
まず、桑原市長が推し進めた、「国際化」というテーマについて。福岡への入国状況を見ると、桑原市長がマスタープランを策定する前年となる87年は、福岡空港の利用者が約43万7,000人、博多港の利用者が約2,600人であった。ビートル2世の運行が開始された91年の福岡空港利用者は約83万5,000人、博多港利用者は3万7,900人に増加。ドーム開業の93年には、福岡空港利用者が約97万3,000人、博多港利用者が約4万7,500人、さらにシーホークホテル&リゾートが開業した95年には福岡空港利用者は約116万9,000人、博多港利用者は約7万4,000人と急増している。
また、国際会議の件数を見ると、桑原市長がマスタープランを策定した翌年から件数が大幅に伸びている。マスタープランを策定した88年には22件だったが、翌89年には41件とほぼ倍増。ドーム開業の93年には87件、シーホークホテル&リゾートが開業した95年には133件と大幅に伸び、ホークスが日本一に輝いた99年には199件にまで増えた。これは、東京、大阪につぐ件数である。
そして、福岡県下の主なレジャー施設の年間動員客数を見ると、福岡ドームが開業した93年は、スペースワールドが202万人に対して福岡ドームは900万人。ちなみに長崎のハウステンボスは390万人を動員している。いかに福岡ドームの動員力が大きかったかがわかる。シーホークホテル&リゾート開業の95年は1,250万人と、さらに動員力が高まり1,000万人の大台を突破。そして、ホークスタウンモール開業の2000年には1,892万人と圧倒的な動員客数を残した。
アジアの拠点都市をつくった立役者
桑原市長が描いたアジアの拠点都市づくりは、アジアとの関係強化や空と海の航路の開発、そして福岡市のインフラの充実などによって大きな成果を上げた。このように福岡が国際都市として発展してきた礎は、「ダイエー創業者・中内功氏の決断と実行力があったればこそ」だといっても過言ではない。
ダイエーグループは巨額の負債を抱えながら、再建の道を模索した。しかし、結局のところ再建は断念せざるを得なくなり、グループ企業だけでなく、本体の経営をも譲る結果となってしまった。
“福岡3点事業”といわれる「プロ野球球団」「ドーム球場」「ホテル」についていえば、決して再建の道がないわけではなかったという声も聞くし、たしかに再建の可能性もあったと思われる。だが、“巨大な龍”が横たわれば、身体の一部だけでその動きに抗うことは難しかろう。ダイエー創業者の中内功氏は、2001年にダイエーから退任し、経営から退いた。そして05年9月19日、83歳の生涯に幕を閉じ、帰らぬ人となった。
中内氏の逝去後に福岡ドーム(当時の名称は「福岡 Yahoo! JAPANドーム」)で行われたソフトバンクホークスと東北楽天イーグルスの対戦では、試合前に両チーム・観客が感謝の意を込めて1分間の黙祷を実施。そして、ドームの電光掲示板にはこう表示された。
「ありがとう!! 中内功さん 福岡はあなたを忘れません 安らかにおやすみください」
現在、ダイエーの名前が球団やドーム球場、ホテルから消えてしまったことは残念ではある。しかし、中内氏が福岡に遺した経済遺産は、その輝きを少しも失ってはいない。これからも多くの経済的・文化的な恩恵を、福岡に与え続けることであろう。
中内氏は、まさにアジアの拠点都市・福岡を創った立役者であったといっても過言ではない。中内氏が経営者として事業家としてずば抜けて優れていたことは、今でも多くの経営者が中内氏を慕い尊敬していることからもわかる。何より、中内氏が福岡に遺した大きな経済的遺産がそれを物語っている。(了)
【宇野 秀史】
(シリーズ・続)<主な参考図書>
『会社再建』(湯谷昇羊)
『九州データブック』(西日本新聞)
『福岡ドームの地域経済への影響』(九州経済調査月報)
『中内功のかばん持ち』(プレジデント社)
『わが人生は未完なり』(講談社)
『福岡ダイエーホークスの戦略』(プロ野球球団福岡ダイエーホークス、ほか)
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