2024年12月27日( 金 )

「西郷(せご)どん」対談 子孫が語る!~明治維新を牽引した薩摩のリーダー(2)

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財政を絞るだけでなく土木や造船など将来への積極投資も

 ――並の胆力ではできませんよ。

▲調所 一郎 氏

 調所 10年ほど前、明治末期生まれの大叔母さんから聞いた話があります。大叔母さんが7、8歳のころ、大正の初めですが、(鹿児島市)鴨池の家に笑左衛門の年老いた孫娘が一緒に暮らしていました。大叔母さんはその老女から、「死ぬ覚悟でいろいろやってきたが、おどろおどろしい案件もあった。自分はいつでも死ぬ覚悟はできているが、子孫が祟られるのではないかということが心配」だと笑左衛門が弱音を吐いたことがあると聞いたそうです。

 ――踏み倒された商家はどのくらいあったのでしょうか。

 調所 かなりの数になりますし、泣かされたところもたくさんあったと思います。

 ――どうしてそんなことができたのでしょうね。

 調所 裏帳簿的な恩恵もありましたが、鹿児島においては武士にしてあげるなどの措置もあったようです。あの時代、侍になれるというのは非常に価値がありましたから。侍にしてくれるなら、と納得した商人はいたかもしれません。

 ――500万両というと、今の価値にするといくらになるのでしょうか。

 調所 計算方法など諸説ありまして、5,000億円とも1兆円ともいわれます。1つの藩にとって大変な金額なのは間違いありません。

 笑左衛門については、財政改革ばかりを言われますが、農政改革や軍制改革も手がけています。緊縮財政にするのではなくて、五石橋をつくったり、運搬用の船を新しく造ったり、攻めにもずいぶんお金を使っている。それは、将来生きるかたちの先行投資として見習うべきものだと、言われていました。

 平瀬 調所さんの経済政策というのは、踏み倒しや密貿易、もちろん専売もでしょうが、そういうものだけでなくて、いろいろな在来に流通しているものの合理性を追求して、きちんと利益が出るようにされたということは、今に通じると思います。

藩の財政を支えた「黒糖地獄」

 ――薩摩には、現在の奄美地方の住民を苦しめた、「黒糖地獄」という過酷な搾取も存在しました。

 調所 たしかにシステムをつくり上げたのは、うちの先祖です。ですから私はずっと、笑左衛門のころが一番厳しい搾取を行った時期だと思ってきたんです。しかしよく調べてみると、笑左衛門が亡くなった5年後の嘉永6(1853)年、総買入制を沖永良部島に、さらにその4年後の安政4(1857)年には与論島へと拡大しています。こうした搾取に対して、元治(げんじ)元(1864)年には犬田布(いぬたぶ)騒動、という江戸時代最大の騒動が徳之島で起きました。

 西郷さんは大島に流された後、現地の暮らしぶりを見て島の人や農民が可哀想だという手紙を書いています。サトウキビを絞る機械が壊れやすいので、木製のものを鉄製に換えるなど島民の労働負担を楽にしようと努力もしたと思います。しかし、背に腹は代えられないというか、現実的にならざるを得なかったでしょうね。総買入制を解消するのではなく、むしろ適応範囲を広げています。

 ――黒糖を経済の武器にしていくというのは、笑左衛門が考えたことですか。

 調所 もともと薩摩で行われていたものですが、笑左衛門はそれをブランディングして、しかも、大坂の蔵屋敷で問屋を通さずに、一般大衆にも直接売っています。

 ――武家がそんなことをやっていたのですか。

 調所 白砂糖は黒砂糖を漂白したものです。薩摩から黒糖を仕入れて白砂糖にしていることもあったようです。面白いのは、一昨年伊勢の「赤福」を訪れた際に見た資料に、天保期以降、それまで塩餡だった赤福が薩摩藩が大坂で黒糖を放出し始めたことで砂糖餡に変わったと書いてありました。薩摩の黒糖はあちこち需要があったようなんです。

(つづく)
【文・構成:宇野 秀史】

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