2024年12月28日( 土 )

福岡を活性化させた傑物伝 アパマングループ代表大村浩次氏(2)

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セムグループ 会長 八頭司 正典氏

いかなる難局でも前面に立つ

  「大村さんは、いかなる困難な局面でも自ら前面に立ちます。絶対に逃げません。昨年発生した、札幌での関連会社が起こしたスプレー爆発事故の際には、大村さんが自ら前面に出て、関係各位を一軒ずつ回ってお詫びしております。逃げ隠れすることなく、発生直後自らの足で迅速に対応しております」と語るのは、セムグループ会長の八頭司正典氏。

 大村浩次氏との出会いは、大村氏が22~23歳ごろであったという。

 「高校から専門学校を卒業後、不動産業社に入社したと聞いております。1991年9月に圓井研創(株)を設立した頃に出会い、当グループの不動産部門に出入りしておりました。当時から〝寝る間も惜しんでよく働く若者だ〟と感心しておりました。本当に勤勉でした。そしていつも駆け足で動いておりましたね。迅速で、礼儀正しく、丁寧な言葉づかい、誠実な態度で対応しておりました。社会的な立場や身分など一切関係なしに、どのような方々にも同じ姿勢で謙虚に誠実な言動で、これは今でもまったく変わりません」(八頭司氏)

 その当時の話として八頭司氏があげたのは、福岡空港のコーヒーショップで大村氏と談話したときの話だ。「そろそろ出ようとした時、さっと食器を引いて片付けて、デーブルをきれいに拭いておりました。若いのに、本当にすばらしい」と回想し、経営者として必ず大成すると確信し、大村氏に強い関心を寄せたという。

盛和塾での学び

 大村氏と出会ってしばらくした頃、八頭司氏は大村氏から「盛和塾」に参加させてほしい旨の依頼を受けた。八頭司氏は、盛和塾福岡でのリーダーでもあった。周囲からは「まだ若い」などの理由で、同塾への入会に難色を示すメンバーもいたものの、「大村さんは、必ず稀代の経営者になる」ことを確信していた八頭司氏は、大村氏の入塾を決めた。約30年前のことだという。大村市は八頭司氏が確信した以上の成長ぶりを遂げていく。同塾で謙虚に学び、学んだことを自社の経営ですぐに実践していたという。「大村さんはさらに成長し、能力は常に高まっておりました。勤勉さも変わらずで、よく働いておりました」(八頭司氏)。

有言実行、迅速、丁寧

 その後、大村氏は東京に進出してアパマンショップネットワークを設立。設立した当時大村氏は八頭司氏に、「上場させたいのですが、八頭司会長のご意見をお聞かせください」と相談に来たという。八頭司氏は、「大村さんならできる。是非ともやるべきだ。応援します」と答え、大村氏は「ありがとうございます。必ず上場します」とその場で決意を固めた。八頭司氏は、「10年程度の年月をかけて上場するだろう」と想定していたところ、2001年3月に上場(ナスダック・ジャパン/現ジャスダック)した。八頭司氏への相談からわずか1年半程度での上場で、八頭司氏は「ただただ感服するのみ」だったという。

 上場後、小倉興産(株)の買収により小倉駅地区の活性化に尽力し、また東京でのM&Aを積極的に実施し、業界活性化に尽力した。リーマンショクなどの影響で苦戦した時期があり、一時は約1,500億円の負債を抱えた時期もあった。それでも大村氏の手腕により、国内不動産業界トップクラスの企業として成長を続け、今に至る。

義理・人情を重んじる

大村 浩次 氏

 大村氏は八頭司氏と出会ったころと変わることなく、勤勉・誠実・謙虚・礼節を重んじた人間力で活動し続ける。何よりも人との縁を大切し、義理と人情を一番大切にするという。

 「不動産業界の経営者が口をそろえるのが、大村さんは義理と人情の人だということ。福岡のある不動産業経営者の話ですが、その経営者の縁で大村さんがビルを保有することがあった。後年大村さんがそのビルを売却した後に、その経営者へ自ら御礼に訪れたようです。その経営者がビルの売買に関わった訳ではなかったが、“ご縁をつくっていただいたから良い契約ができました”と」

 どこよりも早くIT化を推進し、大村氏自身がシステムを構築するなど、業界内では常に一歩先を進む大村氏。人との縁を大切にすることは、大村氏自身の素養と盛和塾での学びが融合されたもので、それが大村氏の経営哲学になっているという。

 ほとんど休むことなく、福岡と東京間を1日2往復することもいとわず、国内外で事業に邁進する大村氏。じつは、自社の清掃活動も毎日実践しているという。事業の最新化など従来の不動産業からの変化・進化に挑戦しながら、人間味溢れる人を大切にする姿勢の大村氏は、これからも社会に貢献し続ける。

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