【連載8】トランプ関税の衝撃:自動車業界~日産の米国での栄枯盛衰の歴史(前)
シリーズ『ドナルド・トランプとは何者か』の第8回
「アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪を引く」。日本の経済が米国と密接に結びついていることを映した名文句だ。米国で起きた現象は日本列島を揺さぶる。世界をパニックに陥れたトランプ関税は、日本の基幹産業である自動車業界を痛打する。なかでも経営が悪化している日産自動車にとっては死活問題だ。日産の米国での栄枯盛衰の歴史を振り返ってみよう。(文中の敬称は略)
1970年代のオイルショック
~日本車は米国で受け入れられる
日本の自動車メーカーは1950年代に米国に進出した。1958年のロサンゼルス自動車ショーにトヨタは「ランドクルーザー」と「クラウン」、日産は「220型トラック」と「ダットサン210型セダン」を出品した。しかし、泣かず飛ばす。日本車は米国の交通事情に適応できておらず、本格的な輸出に踏み切ることができなかった。
1970年代に入ると、神風が吹く。オイルショックと排気ガス規制により、それまで大排気量エンジン主体だった米国の自動車は「ガソリンをガブ飲みする」と敬遠され、小型車重視へと変わっていく。このことが、燃費の良い小型車を得意とする日本車メーカーに好機をもたらした。
1970年の米国の輸入車販売台数のトップ10にはトヨタと日産の2社しか入ってなかったが、1975年には「シビック」が大ヒットしたホンダ、三菱、マツダも加わった。この年は、米国の輸入車販売台数のうち約50%を日本車が占め、独フォルクスワーゲンに代わりトヨタが首位になった。日本の自動車にとって歴史的な年となった。
米国で自動車を売りまくった日産の風雲児・片山豊
米国で日本車を売りまくった、伝説的な“自動車野郎”がいる。日産の片山豊である。風雲児の一代記を綴ってみよう。
片山は1909(明治42)年、静岡県に生まれる。慶応大学在学中の1927年に、当時、生糸を米国向けに搬送していた高速船に助手として乗り込み、初渡米。アメリカを肌で体験したことが、その後の人生の原点になった。
1935(昭和10)年、日産へ入社。横浜工場でダットサンの第1号車が完成する現場に立ち会い、大いなる感銘を受ける。第二次大戦後、当時まだその意義が認められていなかった宣伝の業務を志願した。1960(昭和35)年、50歳にして米国勤務を命じられると、年間販売台数が1,500台だった日産を、在任17年間で米国における輸入車売り上げ1位に引き上げた。
「フェアレディZ」が
米国の若者に熱狂的な支持を受ける
最大のヒットになったのが、1970年に発売した「Zカー(ズィーカー)」。日本名で「フェアレディZ」。若者をターゲットにしたスポーツカーだ。日本車を見向きもしなかった米国の若者に「Zカー」を「ダットサン・240Z(フェアレディZ)」のブランドで売りまくり、爆発的な人気を博した。当初用意した2,000台はあっという間に完売、販売店からは「もっとよこせ」という矢の催促が寄せられた。
アメリカ日産の社長として、フェアレディZの開発における中心的な役割をはたしたのが片山豊だった。「アメリカの若者は自由に長距離を移動できるスポーツカーを求めている」と考えた片山は日産本社に提案した。
片山はまずデザインにこだわった。雄大な大地に負けないダイナミックな造形にするため、ノーズが長いシャープなデザインを採用した。また、長距離をハイスピードで駆け抜けるために、エンジンやサスペンション、ブレーキの強化に努めた。日本のエンジニアを呼んでアメリカのモータリゼーションを経験させた。
優雅なデザインと優れた性能。フェアレディZの人気は、米国から世界へ広がった。世界のクルマ好きの若者から片山は「フェアレディZの父」と呼ばれた。その功績が認められ、1998(平成10)年に米国の自動車殿堂入りをはたした。ホンダの創業者、本田宗一郎も、1970年代の米国排気ガスに基準を満たした最初のメーカーとした功績で、日本人として初めて殿堂入りをはたしている。
日産の独裁者として君臨した石原俊
米国での成功で名を轟かせた片山豊だが、一時は、日産社内で片山の名前はタブーで、日産の歴史から抹殺されようとした。なぜか……有森隆著『日産 独裁経営と権力抗争の末路』(さくら舎刊)を要約する。同書はカルロス・ゴーン(15代社長)に至る日産の独裁権力抗争の歴史を綴っている。
日産には、かつて3人の「天皇」がいた。日本興業銀行(のち、みずほ銀行)出身で9代目社長の川又克二、生え抜きの11代社長の石原俊、自動車労連(のち日産労連)会長の塩路一郎の3人である。
1970年代後半からの日産は「三頭政治」体制と呼ばれた。川又と蜜月関係を結んだ塩路が、石原と激しく対立すると日産は迷走を続け、1999年にフランスのルノーへ身売りに追い込まれた。3人の「天皇」による社内抗争が、日産没落の元凶である。
片山追い落としの独裁者として君臨したのが11代社長の石原俊。1912(明治45)年、東京・麹町に生まれた。1937(昭和12)年、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業、日産に入社した。東大など一流大学の卒業者は、官庁や財閥系の金融機関に入るのが定番だった時代に、地方の大学を出た石原は、日産コンツェルンの創設者・鮎川義介が1933年に設立したばかりの新興企業の日産自動車に入り、経理畑を歩いた。戦時中には徴用を免れ、戦争に行かなかったので、とんとん拍子で昇進した。石原の世代はほとんど戦争に行ったから、社内には競争相手がいなかった。
石原は、これまたなかなかの野心家でもあった。仲間内の飲み会で「俺は40代で社長になってみせる」と公言し、日産の創業者鮎川にも「君は将来、日産を背負う男だ」と期待されていたそうだ。
石原は「サニー」を日産の主力ブランドに育てた
1951(昭和26)年に39歳の若さで部長になった。だが、“政変”で日本興業銀行出身の川又克二が9代目社長となり、石原は閑職に回されて経理部長から輸出担当に異動になった。輸出はいまなら自動車メーカーの花形部門だが、当時は、あって無きがごとき部署だった。50人以上の部員を抱え、財務・経理を仕切っていた経理部長から、部員が10数人の輸出担当に飛ばされた。みえみえの左遷を食らったのだ。
1960年、日産の輸出担当取締役だった石原は、米国日産自動車の社長に任命された。体よく本社から追い払われたわけだ。1965年まで米国子会社の社長を務めて本社の取締役に復帰した石原は、国内市場向けに1,000ccの「サニー」の製造を提案した。この案に川又が激しく反対したが、「サニー」は日産のベストセラーカーとなった。
1973(昭和48)年、川又が社長を退く時、誰もが「サニー」を日産の新しい主力ブランドに育て上げた石原が社長の椅子に座るものと思った。だが、川又は石原を外して岩越忠恕を起用した。塩路が石原を嫌ったからだ。石原にやっと出番が回ってきたのは4年後。65歳の時だ。石原が、自分が社長になることを知ったのは、塩路から「おめでとう」と言われた時だった。キングメーカーが、川又と塩路の2人いることを思い知らされた。
(つづく)
【森村和男】