2024年11月21日( 木 )

怪物・カマチグループ創設者、蒲池真澄氏(11)

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医学界の常識を破り都心部・原宿で回復期病院革命を起こす(中)

<東京は低リハビリ地域>

 回復期リハビリ病棟に関するカマチグループの歴史は、八千代リハビリテーション病院開設にまつわる件よりさらに前からあるのだが、それはまた後に記すとする。ここでは関東方面に目を向けてみよう。

teiji 東京は、蒲池会長にとって進出するに申し分ない地域だった。というのも、急性期病院は大小含めて多数あるが、人口10万人当たりの回復期病床数は全国レベルを下回るからだ。2014年時点で38床。全国平均52に対して大きく下回っている。なかでも都心部は少ない。原宿リハビリテーション病院周辺の山手線沿線には、100万人の高齢者がいると見られているが、回復期病床はわずか200床しかない。
 蒲池会長は「東京は低リハビリ地域だ。カマチグループは、東京にリハビリ専門病院が少なくて住民が困っていたことから、これを建ててきた。リハビリテーション病院は、どちらかというと地方に多く、地価が高い都心にはつくるべきでないという医学界の常識があると聞く。これを覆したいと思って原宿に建てた」と、都心進出への意気込みを語った。
 医学界の常識より10年先を見据えた医療を提供するというのも、蒲池氏が下関カマチ病院を19床で始めた当時からの持論だった。「医学界の常識を破る」ことを公言してはばからない蒲池会長だが、そう言えるだけの先見の明があることはたしかだ。国がまだ早期リハビリテーションの価値を認めず、診療報酬の点数もほとんど加算されなかった70年代から、積極的にこれを実践してきた。
 当時は1人の患者を早期回復させるには、術後は少なくとも1週間は絶対安静というのが常識だった。しかし本当に回復させるには、できるだけ早くリハビリに入る必要がある。手厚くアシストするためには、リハビリ職員(理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語聴覚士(ST))の存在が欠かせないと、これを増員するために、学校法人福岡保健学院内で看護、介護、助産などの人材育成を目的とした専門学校を建て始めた。それが前述の八千代リハビリテーション学院を含む3校だ。

<リハビリ職員の充実が回復期事業拡大の強みに>

 各専門の業務内容について、簡単に触れる。
 PTは起き上がる、立ち上がる、歩くなどの基本的な動作の回復を目的としたリハビリテーションを行う。また電気などを用いた治療やマシーンを使った筋力トレーニングで、社会復帰に必要な体力面の強化を行う。OTは着替えや入浴など、自宅での生活を想定した日常生活訓練を中心に行う。また、自動車の運転や職場復帰のために必要な訓練および園芸や書道などの趣味的な活動も行う。そしてSTは聴く、話す、読む、書くといった言語の障害を持った患者に、機器などを使ってあるいはジェスチャーや描画などによって、言葉や意思を引き出す訓練を行う。また嚥下障害がある患者には、食事を安全に、よりおいしく楽しく食べられるように食べ方の訓練を行う。

 このような専門職の育成が、どれだけカマチグループのリハビリ病棟としての特異性を培っているかというのが、示されるのが【表】だ。
 この表が示す通り、回復期リハビリテーション病棟は、在宅復帰率、看護配置、リハビリ専門職配置、重症者率などで一定以上の基準が求められる。そして巨樹の会は、1番高レベルに当たる回復期リハビリテーション1の認定を受けるための基準にすべて達しているのはもちろん、なかには基準を上回るものもある。
 なかでも群を抜くのが、1病棟あたりのリハビリ職員数だ。
 1レベルの基準がPT3名以上、OT2名以上、ST1名以上であるのに対し、同法人では、PT22名以上、OT11名以上、ST4名以上である。その具体的な人数は、関東グループだけで1,200名。この大人数のリハビリ職員が、他の看護師による看護部や、医師、薬剤師、管理栄養士、ソーシャルワーカーとのチーム体制をとり、365日、必要なときにはいつでもリハビリテーションを提供できるよう準備を整えている。
 それが、在宅復帰率と重症患者の受入率の高さにも貢献している。重度患者への治療は実践を積んだより質の高い人材が必要であるため、どの病院でも受け入れられるというものではない。救急車の受け入れ拒否の理由にもなりがちだ。重度患者の受入率の高さは、スタッフの質を示す1つのバロメーターだということもできる。

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(つづく)

<プロフィール>
kamati_pr蒲池 真澄
学校法人福岡保健学院創設者、社会医療法人財団池友会理事長、カマチグループ会長。
1940年4月14日、福岡県八女郡黒木町生まれ。蒲池家は江戸中期から8代続いた医師の家系で、蒲池真澄で9代目となる。59年 福岡県立修猷館高校卒業、65年九州大学医学部卒業。東京虎ノ門病院でインターン(1年間)、九大大学院医学研究科、下関市立中央病院、福岡大学医学部を経て、74年に今日の池友会グループの礎となった下関カマチ病院を開院し独立した。

 

 

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