2024年12月28日( 土 )

続々・鹿児島の歴史(10)~薩英戦争と西南戦争~

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鹿児島湾

 薩英戦争について。1863年の薩英戦争は、前年の生麦事件がきっかけです。62年公武合体策をすすめるため久光は兵1000余人を率いて上京します(藩主でもない久光の上京実現のために藩はさまざまな画策をしました)。江戸からの帰国途中、神奈川の生麦村で行列に入ってきたイギリス人を斬殺します。薩摩は賠償金支払いを拒否(幕府は受諾)したため、翌年薩摩とイギリスの直接交渉となります。なお、薩摩は7つの砲台に150ポンド砲をはじめ90門余りの大砲が備えており、さらに防衛態勢を強化しました。ただし、砲台以外は戦国さながらの状態でした。

 63年6月、イギリス艦隊が鹿児島湾に入り、犯人処刑と賠償金支払いを再度要求しました。交渉が進展しないなか、7月イギリス側は汽船3隻を拿捕(3隻の購入価格が賠償金を上回っていた)しますが、これをきっかけに開戦です。アームストロング砲によって砲台は壊滅状態となり、城下町の一部と集成館の工場群も焼失、死傷者18人です。イギリス側も旗艦ユーリアラスの艦長以下63人の死傷者です。

 これにより、互いを認めるようになり、薩摩は技術立国を目指します。64年には洋学校の開成所設立、65年イギリスへ新納(前述の大島島司)・松木弘安(後の外務大臣寺島宗則)・五代友厚3人の使節団と開成所の学生を中心とした15人の藩費留学生派遣(当然、密航です)、66年兵制をイギリス式へ変更、67年初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所(使節団機械購入、7人のイギリス人技師招聘)が操業開始です。

 西南戦争について。明治6年、いわゆる征韓論論争に敗れ、西郷は下野します。西郷は、土佐・長州の指導者へ3藩での東京政府の改正変革を提案しますが、拒否されます(マウンジー著『薩摩反乱記』)。翌7年に私学校が設立されますが、経費の一部は県費であり、大山綱良県令の積極的支援がありました。大山と西郷は折り合いが悪かったとされますが、前年に2年満期退役の近衛兵1300余人が、また西郷帰郷にともない600余人(桐野利秋等名前がわかっているのは146人)が帰郷したことは大山県政の大きな課題であり、西郷の協力も必要でした。私学校はある、不平士族は多い、反政府の立場の久光がいる等で、「半ば独立国」のようだった鹿児島と政府の対立が明治10年に勃発します。

 明治10年、西郷軍は2月14日に旧練兵場にて約1万人の部隊編成(1小隊200人の50小隊)をしますが、私学校生徒と強制された若年層が大部分でした。全体的には、地方の有力郷士層は批判的でした。翌15日熊本へ出発し、21日に熊本城包囲です。なお、この進軍については、まず西郷ら数名が東京に行くべきとか長崎経由の海路も検討されましたが、却下されました。3月には田原坂の戦いで敗れ、4月15日に熊本城包囲解除(だいたいは決着)、7月24日都城陥落(逆転はほぼ絶望的)、8月16日解軍の令が出され、精兵1,000人となります。9月1日守備隊を撃破して鹿児島に潜入しますが、9月24日城山陥落です。また、4月23日政府軍は鹿児島派遣、これを受けて4月28日に西郷軍も派遣、5~6月は激しい市街地戦が行われ、焼失戸数1万4141戸(鹿児島だけで9778戸、市街地ほぼ焼失)です。

 西郷軍の戦死、生死不明者は士族4,919人、平民298人の計5,217人(他県を含めると6,000人以上)、政府軍は約6万人が従軍し、7,000人弱の戦死者でした。不平士族による最後で最大の反乱となりますが、復興には時間がかかり、鹿児島は遅れをとりました。

 なお、西郷の名誉回復は明治22年の大日本帝国憲法発布時です(正三位追贈)。

(つづく)

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)

 1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

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