【シリーズ】生と死の境目における覚悟~第2章・肉親を「看取る」ということ(1)
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人は皆、生を受けた瞬間から必ず死へと向かっていく。介護などを受けずに人生の最期を迎えられたら、親族など、周辺の人々の負担は軽減される。しかし、人生そう思い通りにはいかない。
NetIBNewsでは、実の父母、そして父方の伯母の介護を12年間にわたって行ったある人物の壮絶な日常を連載することとする。なお、本人に直接インタビューした内容のうち、プライバシー保護の観点から氏名など固有名詞は仮名とする。
職を辞して福岡へ戻る
石田弘次郎(仮名)は、現在51歳。運輸関係の仕事に従事している。父・弘(1935年・昭和10年生まれ)、母・洋子(1942年・昭和17年生まれ)の長男として福岡県で生まれ育った(なお、弘次郎には姉がいる)。父は国内メジャーの海運会社の社員として、1年の3分の2は航海に出る「海の男」。母は、専業主婦として石田家を守っていた。
父・弘の収入は、一般のサラリーマンの平均より高く、「本当に仕事一筋の父で、家族のために一所懸命働いてくれていました。稼ぎは良かったと聞いていました。母が家のこと、我々子どもの教育などに専念し、奮闘してくれました」と弘次郎は語る。
続けて「父は、相応の稼ぎがあったのですが、家庭にはほとんど無関心でした。1年の大半が航海だったので、無理もありません。よって、姉と私は母に育てられたと言っても過言ではありません。航海を終えて帰国し、自宅に戻った父との対話はほとんどありませんでした。そして、しばらく休養してから、また仕事に出ていたので、父との思い出はまったくと言っていいほどありませんでした」と当時の父・弘との関係性について語った。
そんななか弘次郎は、学校を卒業後、セミプロとして、ヨット競技などを生業として活動していた。その後、弘次郎は28歳の時に一般企業に就職し、神奈川県横浜市に転居した。企画職として活躍し、その実力が役員に認められ、重要なポストに抜擢された。その後も弘次郎は充実した日々を過ごし、会社側から「将来、経営の中枢になってもらいたい」と打診を受けるなど充実した人生を送っていた。
しかし、そんな日々も長くは続かなかった。今から12年前、父・弘が脳梗塞で倒れ、要介護3〜4の状態となったのだ。母・洋子が懸命に介護するも、疲弊しているのは明らかだった。「このままでは、父・母とも共倒れになってしまう」と考えた弘次郎は職を辞して故郷に戻り、母とともに父の介護に専念することを決断した。
当時の勤務先の代表をはじめ、役員らに慰留されたものの、弘次郎の決心は変わらず、横浜から故郷・福岡に戻った。「言葉には出しませんが、母の疲弊した様子を目の当たりにして、このまま任せることはできませんでした。もちろん、当時仕事が充実しており、毎日楽しかったことは事実です。それは、母が育ててくれたおかげ、父が家のために一所懸命働いてくれたおかげで、自分があるからです」と何の迷いもなかったという。
福岡に戻った後、弘次郎は母とともに父の介護を行うのだが、大きな試練が待ちうけていた。
(つづく)
【河原 清明】※介護経験のある方は、ぜひご意見・ご感想をお寄せください。
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