「まちの電気屋さん」からスタート
ここからは(株)ヤマダホールディングスが、どのように事業規模を拡大してきたか、時系列を追って見ていきたい。同社の沿革は、①創業(1973年)から1980年代までの事業の基礎を固めた時期、②2000年代までの業界トップになるまでの時期、そして③住宅事業など事業の多角化などを推進する今に至る時期、と大きく3つに分けられる。今回は、①の時期について見ていく。
70年代から80年代は人々の生活が豊かになり、ライフスタイルに大きな変化が見られた時期だった。マイカーはもちろん、家電ではいわゆるテレビ、冷蔵庫、洗濯機といった“三種の神器”に加え、ビデオやオーディオといった、より暮らしに彩りを添えるような製品を、各家庭、さらには家族一人ひとりが所有するようにもなった。例えば、個人向けゲーム機の走りのような製品が普及し始めたのもこの頃だ。
とくに70年代は、地域にある「まちの電気屋さん」が、ナショナル(松下電器、現パナソニック)、東芝、日立、シャープなどの特約店として家電品を販売していた。ヤマダホールディングスは、73年に群馬県前橋市で電気店「ヤマダ電化サービス」を開業したことが始まりだ。
創業者であり、同社の会長として長くグループを牽引してきた山田昇会長が、ビクター前橋工場勤務時代に学んだことをベースとしたもので、店舗面積は当初、わずか8坪、夫婦二人で営んでいたとされている。当時は全国各地に存在した「まちの電気屋さん」の一つに過ぎなかったわけだが、80年代後半には北関東有数の家電量販チェーンへと成長を遂げた。
その背景には、時代の変化を先取りした経営判断、既存の業界慣行にとらわれない挑戦があった。家電流通はメーカー系列店が主流で、消費者も近所の電気屋で購入し、修理や据え付けまで任せることが一般的だった。しかし、70年代後半になると、消費者は単に製品を購入するだけではなく、「より良い製品をより安く」「複数メーカーを比較して買いたい」という意識を持つようになった。オイルショック後の節約志向がそれを後押しした。
山田氏は系列店という枠組みにとどまるのではなく、複数メーカーの商品を扱う混売・量販店化へと舵を切った。メーカーに縛られないため、顧客は同じ店舗で各社製品を比較でき、ここに価格競争が生まれる。現在では当たり前となっているこの販売形態は、既存の流通構造に挑戦する大胆な経営判断であったはずだ。その結果、78年には店舗数5店、年商6億円を突破するまでに成長。創業からわずか5年で地域有力チェーンへと発展したことは、この戦略が市場ニーズを的確に捉えていたことを示している。
合理化、効率化をいち早く推進
80年代初頭は同社の本格的な成長期となった。83年に(株)ヤマダ電機を設立。これを契機に個人商店的な経営体制から企業経営へ移行し、多店舗化を前提とした仕組みづくりを進めた。85年には群馬県外第一号店として埼玉県深谷市へ進出し、地域チェーンから広域チェーンへの足がかりをつくった。
チェーン化を進める一方で、同社が推進したのが合理化、効率化の動きだ。従来の店舗ごとの裁量によるものではなく、チェーン店舗の運営を標準化し、商品構成や販売方法を統一することで、多店舗展開を効率化した。店舗数が増えるほど大量仕入れが可能となり、価格競争力はさらに高まる。この好循環が成長を加速させた。
物流も強化。多くの地域電器店ではメーカーから各店舗へ直接商品が配送されていたが、同社では物流センターを設置し、自社で在庫を一元管理する体制を整備した。物流効率が向上したことで、欠品を防ぎながら店舗運営コストを削減できた。現在の家電量販チェーンでは当たり前となった物流システムを、80年代前半から積極的に整備していたのである。
このほか、86年には全店へPOSシステムと大型コンピューターを導入。売上や在庫情報をリアルタイムで把握できるようになり、どの商品が、どの地域で売れているのかを迅速に分析できるようになった。このように、消費者のライフスタイルやニーズの変容をいち早く捉え、それに対して迅速に対応できる体制を整えたことが、90年代に売上高1,000億円、2000年代初頭に国内家電量販店の売上高で第一位を達成。以後、トップを維持する原動力となった。
(つづく)
【田中直輝】









