【凡学一生の優しい法律学】日本学術会議委員任命拒否事件(6)番外編(前)
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有名弁護士の馬鹿げた論争~感覚的な議論
国民は弁護士の知力・論理力がいかに拙いものであるかという実演劇を、橋下・宇都宮両有名弁護士の論争に見ることができる。橋下氏の議論の注目すべき点は、「何でも権利に変えてしまい、さらに権利を基にして物事を考えが、それは恣意的である」ということである。例を挙げると、下記の通りだ。
(1)総理大臣が学術会議の推薦に基づき「任命する」とあれば、それを「任命権」と認識し、表現する。
(2)菅総理大臣が推薦を無視して6名の被推薦人を任命しなければ任命拒否権の行使と認識し、理解する。上記の2つの事例において、議論がいかに粗雑で感覚的なものであるかをわかりやすく説明したい。
法文に「任命する」とあっても、それが実質的なものか、もしくは形式的なものかということは、関連する法規や制度、立法者意思などを勘案して決定する。また、法文上には任命するとの文言がとくにない場合でも、実質的には「任命」である例も無数にあるという事実からでも、両弁護士の立論が論理的でないことが感覚的に理解されるだろう。
ただ、宇都宮氏は当初、総理大臣の任命権は天皇の国事行為における任命権と同じく形式的なものであると主張していた。この主張の根拠自体がおそらく感覚的であり、論理的でないため、総理大臣には任命権があるが、任命拒否権はないという矛盾の論理の泥沼にますます入っていった。
宇都宮氏は、この主張の変更が重大な矛盾を含むものとは夢にも思っていない。感覚のみで議論をしている証拠である。橋下氏は、宇都宮氏の主張にすかさず横槍を入れ、勝ち誇ったかのようなコメントを発表した。これまたとんでもない暴論であるが、後述する。
宇都宮氏の新しい論理は、なぜ重大な矛盾を内包するか。それは、おそらく任命拒否権と解任権を混同し、感覚的に同一性を認識した結果である。任命拒否権は、その言葉のとおり、第三者が行った任命を拒否する行為を正当化する権利であり、任命権者に属する権利ではない。任命権者にもともと属しない権利である任命拒否権を論ずるのは、明らかな矛盾である。
宇都宮氏が、もし任命をしなければならないのに駄々をこねて任命をしない場合を想定しているのであれば、それは任命権の行使義務のたんなる怠慢である。それならば、橋下氏は任命権者には自由裁量権があるため任命をしないという判断が許されると反論するだろう。
しかし、任命する場合にはその内容について自由裁量が認められていても、採用を決定すべき場合において採用しないことは自由裁量でもなんでもない。これは任命権を権利としてのみ理解し、その義務としての側面を失念したものである。その例を挙げると、嫌がらせでいつまでも任命しないことは自由裁量に当たるのかということだ。その状況を想像すれば、「自由裁量」というマジックワードも色あせる。
橋下氏の主張は、もっとも重大な論点である「推薦の無視」が議論から除外されている。今回の総理大臣の「任命する」権利と義務には、「学術会議の推薦に基づき」という重大な前提条件が存在する。両弁護士の「推薦」という言葉に対する理解は感覚的なものであり、法律上は実質的に何の制限もなく、総理大臣がせいぜい参考にする程度のものと認識している。
そのため、今回の議論では、両弁護士に総理大臣に「推薦を無視する権利はあるのか」という発想がない。その発想を持っていれば、推薦を無視することは明らかに明文の規定に反するため、推薦を無視できない任命権という議論をすること自体が不毛であることに気づくはずである。実質的な任命権者は学術会議そのものにあるが、その理由は学術会議が党派政治から独立し、時の政治状況を超えた視点から国政に関して提言をするという制度の目的と自治独立性に合致したものであるためだ。
橋下氏らが好む「権利」を用いて表現すれば、「推薦無視権」が総理大臣にあるかないかという本質的な議論となるが、明文に反する議論はさすがに橋下氏でさえ躊躇するだろう。
(つづく)
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