日立グループの創業企業の日立金属をなぜ売却?~日立製作所と日立金属のルーツをたどる(3)
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(株)日立製作所は、人々が知っている総合電機の日立ではなくなっている。日立はもはや家電の王様、テレビを製造していないのだ。高度成長時代に「重電の雄」の名声をほしいままにしていたが、重電の象徴といえる火力発電所や海外の原子力発電業からの撤退を決めた。日立グループの原点である、創業企業の日立金属(株)を売却する。その理由とは。
日立製作所の創業者は小平浪平
「君の力を借りたいんだ」。久原房之助氏の熱烈な説得により、久原鉱業所に入社した1人の男がいた。小平浪平氏である。
小平氏は1874年1月15日、栃木県都賀郡合戦場(現・栃木市都賀町)に生まれた。1900年東京帝国大学電気工学科を卒業した小平氏は、東京電灯(株)(東京電力ホールホールディングス(株)の前身)に入社。富士山を水源とする駒橋発電所の建設に取り組んだ。
ところが、小平氏は、そこで見た光景に失望した。発電機はドイツのシーメンス製、変圧器は米国のゼネラル・エレクトリック(GE)製、水車はスイスのエッシャ・ウイス製であり、現場でも外国人技術者が要所を仕切っていたのだ。その衝撃が、日立製作所の誕生の「創世記」として語り継がれる「大黒屋の会談」につながっていく。その顛末はこうだ。
「資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一氏の甥、渋沢元治氏(のち名古屋帝国大学初代総長)は、小平氏と東京帝大の同級生で、卒業後は逓信省電気試験所の技師となっていた。
小平氏は06年7月15日に、中央線の甲府行きの列車のなかで、駒橋発電所の検査に向かう渋沢元治氏と偶然再会した。その日は豪雨のため、大月駅で下車。猿橋町の大黒屋旅館に一緒に泊まり、2人は夜を徹して語りあった。
「日本は電気普及を国策として推進すべきだ。あなたは今、電力を遠距離に送る画期的な技術を担当している。人がうらやむ絶好の地位を捨て、鉱山へ移ることは賛成できない」といい、友の身の振り方を真剣に案じる渋沢氏に対して、小平氏はこう熱っぽく返した。
「ここでは、外国から機械器具を輸入し、海外から技術者を雇い入れ、日本人は据え付けだけの仕事だ。私は、これらの機械器具を、やせても枯れても自分でつくってみたい」
こうして小平氏は、久原氏の誘いを受け入れた。東京電灯の送電課長だった小平氏は、久原鉱業所日立鉱山の電気修理工場の工作課長として入社した。国産技術を高めることが、小平氏の理想だった。使用人にとどまっていては「自主技術によって立つ」という小平氏の思いは実現できない。修理工場を電気機器の製作工場に転換すべく、久原氏を口説いて10年11月、4000坪の土地を購入し、日立製作所を創業した。
日立製作所は、茨城県日立村(現在の日立市)の山あいにある、日立鉱山の電気修理工場のちっぽけな丸太小屋から始まった。小平氏が35歳の時だ。12年に久原鉱業所から分離独立、本格的な電機機器の製造工場に乗り出す。20年に(株)日立製作所を設立した。
第一次世界大戦後、親会社にあたる久原鉱業が経営危機に陥り、28年、久原氏は義兄の鮎川義介氏に一切をゆだねて実業界から引退する。翌29年、小平氏は空席だった日立製作所の初代社長に就いた。
(つづく)
【森村 和男】
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