日立グループの創業企業の日立金属をなぜ売却?~日立製作所と日立金属のルーツをたどる(4)
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(株)日立製作所は、人々が知っている総合電機の日立ではなくなっている。日立はもはや家電の王様、テレビを製造していないのだ。高度成長時代に「重電の雄」の名声をほしいままにしていたが、重電の象徴といえる火力発電所や海外の原子力発電業からの撤退を決めた。日立グループの原点である、創業企業の日立金属(株)を売却する。その理由とは。
鮎川義介が久原鉱業の経営を引き継ぐ
鮎川義介氏は1928年、義弟・久原房之助氏が経営する久原鉱業の社長に就任した。政友会総裁の田中義一氏(のち首相)から、経営が破綻状態になっている久原鉱業の再建を懇請され、渋々引き受けた。久原鉱業を日本産業(株)と社名を改めて持株会社とし、傘下に日本鉱業(株)、日立製作所、戸畑鋳物(株)をもつ、日産コンツェルンを形成した。
鮎川氏は日産自動車の創業者として名高い。戸畑鋳物はダット自動車製造を傘下に収め、自動車製造に進出する。33年12月、持株会社日本産業と戸畑鋳物の共同出資(資本金1,000万円)で、自動車製造(株)を設立。初代社長に鮎川氏が就任。「ダットサン12型フェートン」の製造を始めた。フェートンは、4人乗りの折りたたみ式のオープンカーである。34年6月、社名を日産自動車(株)とした。日本産業から2文字をもらい日産自動車とした。資本は日本産業、技術と工場設備は戸畑鋳物が現物出資してスタートを切った。
持株会社は、事業ごとに資本の効率化を追求する米国型の企業組織である。37年の時点で日産コンツェルンの株主数は10万人を上回り、既存の三大財閥をしのぐ規模にのしあがっていた。
怪物経営者、鮎川義介氏は日産コンツェルンを去る
この時代の鮎川氏は、満州事変以降、軍部に積極的に協力した。旧満州(中国東北部)に軍部が打ち立てた満州国に、日産グループをそっくり移した。しかし、日本は太平洋戦争に負け、鮎川氏は満州での事業や利権のすべてを失った。
戦後、鮎川氏を待ち受けていたのは戦犯の容疑。2年間、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)暮らしを余儀なくされ、日産グループの経営からも退いた。鮎川氏が戦後精力を傾けたのは、中小企業の育成だった。ベンチャーキャピタルを興して新産業を支援した。ソニーの立ち上げの時期にも資金を援助していた。67年、86歳で波乱万丈の人生を終えた。
久原氏は事業から引退後、政界に転身。逓信大臣、立憲政友会の総裁になった。ソ連を訪れてスターリン氏と単独会見したり、二・二六事件では反乱軍の黒幕として逮捕されたりした。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。追放解除後、いち早く訪中し毛沢東氏と会談し国交回復を求めるなど、95歳で没するまで怪物ぶりは衰えなかった。
戸畑鋳物の工場跡地はイオン戸畑ショッピングセンターに
戦後、日産コンツェルンは解体され、各企業はそれぞれ独自の道を歩み、日立製作所と日産自動車は日本を代表する巨大企業になった。戸畑鋳物は戦前に日立製作所によって吸収合併され、戦後の56年、日立製作所が100%出資で日立金属工業(株)(現・日立金属)を設立し、旧戸畑鋳物の戸畑工場など鉄鋼部門を引き継いだ。
日立製作所のルーツである久原氏の日立鉱山は81年閉山され、敷地は山林に戻り、全山うっそうたる緑に覆われているという。日産自動車のルーツである鮎川氏の戸畑鋳物の北九州市戸畑区の工場跡地には、イオン戸畑ショッピングセンターが進出した。
大型ショッピングセンターの入り口に「戸畑鋳物株式会社 発祥記念の碑」がある。
「この碑は日立金属(株)の前身である戸畑鋳物(株)が、明治43年(1910)鮎川義介翁により、東洋初の可鍛鋳鉄工場として設立された場所であります。以来営々と引き継がれ、昭和62年(1987)福岡県京都郡苅田町へ工場が移転するまで、斯界のパイオニアとして地域の発展に寄与してまいりました」
戸畑鋳物は、日立製作所のルーツではなく、日立金属と日産自動車のルーツである。それにしても、日立金属が外資系に売却されることには釈然としないものがある。
(了)
【森村 和男】
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