コロナ禍における「世間」と「同調圧力」(中)
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九州工業大学名誉教授 佐藤 直樹 氏
「世間」はあるが「社会」がない日本
世間という言葉は今から1200年以上前の「万葉集」の山上憶良の歌のなかにも出てきます。そのころと今とで「世間」という言葉の使い方はまったく変わっていません。インターネット、SNSの普及など当時と今とではコミュニケーション手段が大きく変わっていますが、世間という概念にがんじがらめにされているという意味では日本人の精神構造は今も昔も変わっていないのではないでしょうか。
実はかつて欧米にも世間というものが存在していました。それがキリスト教の浸透にともなってなくなり、代わりにsociety=社会が出現しました。カトリックには「告解」という行為があります。告解は教会で司祭に対して自分の罪を告白し、赦しを得るというもので800~900年前から行われるようになりました。
告解とはある意味、自分の内面を神にプレゼンテーションする行為で、それにより個人という概念が初めて誕生したわけです。個人の誕生により徐々に社会というものが形成されて近代以降の市民社会になっていくわけです。
日本にsocietyという言葉が入ってきたのは今からおよそ140年前です。当然、当時はsocietyも個人を意味する「individual」という言葉もありませんでした。だから翻訳をしたわけですが、そのときにsocietyは「世間」とは訳されませんでした。なぜ、世間と訳さなかったかというと「society=社会」は「individual=個人」が形成しているということに気づいたからだと思うのです。
societyという言葉が「社会」と翻訳されて140年、日本にsociety=社会が生まれたかというと、社会という言葉こそありますが、実際にはないと言わざるを得ません。つまり欧米で使われる「society=社会」「individual=個人」と日本で使われるそれとでは、ズレがあるのです。
要するに日本には「世間」はありますが「社会」がありません。欧米は法のルールに基づいてのみ国家が成立しています。日本にももちろん法のルールは存在しますが、土台となる部分には世間が存在するのです。これは私が大学の講義のときによく使う表です。三角形の下の部分が世間で、上の部分が社会を表しており、もともとあった世間が土台となって、上にちょこんと社会が乗っているかたちです。この表の通り、日本という国は世間という土台の上に法のルールに基づいた社会がある。極論すれば日本人にとって社会は「建前」で、世間が「本音」なのです。
「モリカケ」「桜をみる会」などの一連の問題で「忖度(そんたく)」という言葉が脚光を浴びましたよね。この忖度という言葉ですが、海外の人にはまったく理解ができないでしょう。空気を読み、上の意向を察して行動を決定する。法のルールに基づいて行動する海外の企業ではありえないし、それを役所がやるというのは考えられないはずです。このように日本ではまずは世間のルールが働き、世間のルールでは解決できないような問題について、ようやく法(社会)のルールが適用されると言ってもいいでしょう。
(つづく)
【新貝 竜也】
<プロフィール>
佐藤 直樹(さとう・なおき)
評論家 1951年仙台市生まれ。九州大学大学院博士後期課程単位取得退学。英国エジンバラ大学客員研究員、福岡県立大学助教授、九州工業大学教授などをへて、九州工業大学名誉教授。99年「日本世間学会」創立時に代表幹事。主な著書に、『同調圧力-日本社会はなぜ息苦しいのか』(鴻上尚史との共著・講談社現代新書)、『なぜ日本人は世間と寝たがるのか-空気を読む家族』(春秋社)、『加害者家族バッシング-世間学から考える』(現代書館)、『犯罪の世間学-なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか』(青弓社)、『目くじら社会の人間関係』(講談社+α新書)など。関連キーワード
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