2024年11月25日( 月 )

コロナ禍のいま、多くの市民が「哲学」に飢えている(2)

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玉川大学 文学部 名誉教授 岡本 裕一朗 氏

 新型コロナウイルスの感染拡大は止まるところを知らない。世界の感染者は6,500万人、死亡者は150万人を超えた(ジョンズホプキンズ大学12.4集計)。ワクチンや有効な治療薬の開発が遅々として進まないなか、冬場に向かって第3波の到来も予測されている。
 こうしたコロナ禍を誰もが「健康危機」と「経済危機」の視点からとらえているが、経済危機を乗り切る抜本的対策について、政治家も経済人も、まったくシナリオを描けないでいる。そんななか、岡本裕一朗・玉川大学文学部名誉教授の近刊『世界を知るための哲学的思考実験』や『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』が注目を集めている。

思考実験は哲学の古典的手法

 ――哲学における「思考実験」について解説していただけますか。 

岡本 裕一朗 氏
岡本 裕一朗 氏

 岡本 「思考実験」というと、とくに日本の多くの読者の皆さまは、現実の世界とは少し距離のある、面白い「頭の体操」や「クイズ」のようなイメージをお持ちになると思います。しかし本来、哲学でいう思考実験とはそれとはまったく違います。あくまでも社会的な現実問題を考えるための手法です。 

 哲学では社会的な現実問題を考える際には、理系の学問のように実験してたしかめることができません。しかし、だからと言って抽象的な理論だけで進めれば臨場感もなく、面白さも欠いて、議論がなかなか進んでいきません。もともと思考実験というのは、古代ギリシャの哲学者であるプラトンの時代から、哲学の重要な手法(武器)の1つとされてきました。プラトンには「ギュゲースの指輪」(※3)の話(どんな時でも、正義をいつも貫けるか)というものがあります。 

 「ハーバード白熱教室」が日本でも大反響を呼んだ、ハーバード大のマイケル・サンデル教授の「トロッコ問題」(※4)は有名です。しかし、あまり知られていないことですが、「暴走電車のシナリオ」を基本的に発案したのはフィリッパ・フットというイギリスの女性哲学者です。彼女のこの思考実験の裏には、カトリックにおける「人工妊娠中絶(是か非か)問題」(人工妊娠中絶を正当化するためにはどのような考え方ができるのか)という現実の問題がありました。その後、この問題はアメリカの女性哲学者ジュディス・ジャーヴィス・トムソンによって、「トロッコ問題」として有名になりました。 

 今後私たちは「答えのない世界」に立ち向かっていかなければなりません。そのとき、「今自分が常識と思っているものと違うものを想定する。そのために1つのモデルを自分の頭のなかでつくり出し、どういう結果になるのかを考えてみる」ことはとても大切なことです。自分の進む方向を決める重要かつ必須な手法になると思います。

現代社会のデジタル監視体制

 ――テーマごとに思考実験を行ってみたいと思います。1つ目は「情報管理社会」です。 

 岡本 「情報管理社会」を考えるとき、旧い意味での、四6時中監視・管理されている「管理社会」と分けて考える必要があります。旧い管理社会のイメージは、まさにジョージ・オーウェルの『1984年』の世界、ミシェル・フーコーの「パノプティコン」(※5)の世界です。すなわち、一定の場所に「監禁」され、「監視」によって規律・訓練(近代社会では、人々に規律を植え付けるという考え方があった)が強制されるというものです。 

 情報管理社会(コントロール社会)はそれとは違います。個々人は外部から強制されません。個人は、自分の意志に従って自由に行動しています。カードで買い物をし、カーナビを使って車で移動し、電車に乗り、Googleでネットサーフィンを行い、ツイッターで発信し、メールで商談します。それぞれの行動は逐一登録されていくのですが、その時私たちは「監視されている」という意識はありません。現代社会では、監視は人間によって行われるのではなく、モノ(デジタル情報機器)が自動的に実施しているからです。 

 たとえばデパートの消費者を考えてみればよくわかります。そこには、「防犯カメラ」は設置されていますが、ほとんどの客はそれを意識することはないし、その視線が消費者の規律を形成することもありません。しかし、商品を盗んだり壊したりすれば、直ちに捕まってしまいます。そもそも、防犯カメラは、犯罪予防のためだけにあるのではなく、もっと積極的な使い方、たとえば「マーケティング・リサーチ」などに使われています。フロアのなかで客の動向を見ながら商品のレイアウトを検討したり、あるいは消費者のニーズを探ったりしています。 

 現代の情報管理社会を哲学者はどう捉えているのでしょうか。モノ(デジタル情報機器)による自動監視は「諸刃の剣」なので、当然意見はわかれます。しかし、デジタルテクノロジーが私たちの生活を支える基盤になっていることは疑いようのない事実で、まったく無視することはできません。さらにいえば、バイオサイエンス(生命科学)やニューロサイエンス(神経科学)の将来は、人々の情報をいかに収集・管理するかにかかっているので、情報管理社会なくしてその発展は望めません。 

 読者の皆さまにも思考実験をやっていただきましょう。ドゥルーズは遺書のようなかたちで次のように問いかけをしています。 

【思考実験】コントロール社会への抵抗はいかにして可能か?

 保護区内の動物や(エレクトロニクスの首輪をつけた)企業内の人間など、開かれた環境における構成員の位置を瞬間ごとに知らせるコントロールのメカニズムを思い描くのに、SFは必要ではない。次のように想像してみよう。「決められた障壁を解除するエレクトロニクスのカード(可分性)によって、各人が自分のマンションを離れ、自分の住んでいる通りや街区を離れることができる町がある。しかし、決まった時間帯には、同じカードが拒絶されることもあるのだ。こうした全世界規模で張りめぐらされたコンピュータ・ネットワークのなかで、私たちはコントロール社会に対抗する新たな抵抗の形態に順応したり、新たな抵抗を成り立たせたりする余力があるのだろうか。 

(つづく) 

【金木 亮憲】 

※3:ギュゲースの指輪 自在に姿を隠すことができるようになるという伝説上の指輪。指輪の所有者は自身の意のままに透明になることができるため、不正を犯してもそれが発覚することがない。そのため悪評を恐れる必要がなくなるが、それでも人は正義を貫くかどうかが検討されている。  ^

※4:トロッコ問題 思考実験の1つ。暴走するトロッコの軌道上に5人の作業員がいて、そのまま放っておけば5人は轢死する。自分が分岐器を作動させればトロッコは別の軌道に入るが、その先にも1人の作業員がいる。(バリエーションの1つ)または(事例の1つ)特定の人を助ける代わりに別の人を犠牲にしてもよいかという倫理学上のジレンマを扱っている。  ^

※5:パノプティコン 18世紀末にイギリスの思想家、J.ベンサムが考案した監獄のモデル(一望監視施設)。その建築学的構造は中央に監視塔を設け、その周囲に円状の収容施設を配置。中央の塔からは収容施設の各独房に監視のための光線が送られるが、それによって囚人を監視しつつも監視者の姿は決して見られない環境がつくり出されている。 ^


<PROFILE>
岡本 裕一朗
(おかもと・ゆういちろう)
1954年福岡県生まれ。玉川大学文学部名誉教授。九州大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。九州大学文学部助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋の近現代哲学を専門とするが、興味関心は幅広く哲学とテクノロジーの領域横断的な研究をしている。著書として『フランス現代思想史』(中公新書)、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』、『12歳からの現代思想』(以上、ちくま新書)、『モノ・サピエンス』(光文社新書)、『ネオ・プラグマティズムとは何か』、『ヘーゲルと現代思想の臨界』、『ポストモダンの思想的根拠』、『異議あり!生命・環境倫理学』(以上、ナカニシヤ出版)、『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)、『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』(早川書房)、『世界を知るための哲学的思考実験』(朝日新聞出版)など多数。

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