創立以来の苦境に立つ劇団わらび座 ミュージカル「北斎マンガ」で復活を期待(後)
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新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、最大の危機に直面している劇団わらび座。生き残りをかけてさまざまな取り組みを行っているが、ミュージカル「北斎マンガ」で描かれた画狂老人・葛飾北斎の生きざまにこそ、再生のきっかけがあるのではないだろうか。
北斎の活躍と奇人ぶりを存分に描く
そのわらび座が、起死回生の一手として打つ興行が、ミュージカル「北斎マンガ」だ。葛飾北斎の名を知らない日本人はいないだろう。その影響力は日本だけにとどまらず、ゴッホやモネなど印象派の画家たち、ドビュッシーなどの音楽家にも大きな影響を与えたといわれている。
北斎の代表作は、「神奈川沖浪裏」「凱風快晴(赤富士)」をはじめとする「富嶽三十六景」、浮世絵や錦絵の版画、「北斎漫画」、そして晩年に手がけた写実的な肉筆画など。生涯にわたり絵画への情熱を失わず、まさに晩年の雅号通り「画狂老人」と呼ぶにふさわしい芸術家人生を送った。
80を超えたある日、絵筆を投げ出して「おれはいまだに猫1匹うまく描けやしねえ」と泣き出したというから、相当なものだ。絵師として注文を受けて描くことがほとんどだったが、納得がいかなければ頑として売らないこともあり、当時長崎にきていたオランダ人医師シーボルトとトラブルになったこともあった。
北斎は、90年の生涯で93回も住居を変えた引っ越し魔でもあった。部屋が汚れてきたから引っ越そうと、1日に3回引っ越したという逸話も。また、絵師の看板である雅号を30回も変えるなど、徹底した奇人変人としても知られている。
わらび座の「北斎マンガ」でも、その奇人ぶりは存分に描かれている。舞台は江戸時代・寛政に幕を上げる。勝川派で絵を学び、浮世絵師としてのデビューをはたしたころだ。
家族を亡くして生きる張り合いをなくしていたおことは、版元の蔦谷重三郎から中島鉄蔵(のちの葛飾北斎)を引き合わされる。鉄蔵も3人の子どもを抱えたやもめ暮らしだったが、「日本一の絵師になるのだ」と画業に没頭する姿に、おことはいつしか惹かれていく。
戯作者の曲亭馬琴と組んだ「新編水滸画伝」「椿説弓張月」が大ヒットを飛ばし、北斎は誰もが知る絵師になる。その一方で、馬琴とは作品の方向性をめぐって大喧嘩。おことと北斎の間に生まれた娘・お栄は葛飾応為を名乗って絵師として活躍するが、こちらも夫の絵をけちょんけちょんにけなして離縁されるありさま。
絵のことばかりを考えている北斎とお栄を陰で支えるおことだが、ある日突然の病に倒れてしまう。彼女のために一世一代の絵を描こうと決意する北斎だが、はたして描き上げることはできるのか。決裂したままの馬琴との関係性は…。
北斎の生きざまに学ぶ
物語の結末はわらび座のステージをご覧いただくことにして、画家としての北斎の生き方に改めて注目してみたい。
北斎と同じく天才画家と呼ばれるピカソは、「ゲルニカ」などに用いた「キュビズム」と呼ばれる一見奇怪な「複数の視点から見た対象を1枚のキャンバスに結実させる手法」で知られている。しかし、ピカソはキュビズム的な絵だけを描いていたわけではない。少年時代には当時の古典的な技法を完全に習得し、社会的リアリズム絵画を描いていた。青年時代には自らの内心の不安を色彩まで含めて表現した「青の時代」、プライベートが充実した時期には「バラ色の時代」と呼ばれる一群の絵画を残している。画家として充実期にあったピカソが挑戦した新しい技法がキュビズムだった。
北斎の生涯も挑戦の連続だった。勝川派の絵師としてデビューしたものの、他流派や中国画、西洋画などさまざまな技術を吸収しようとしたために破門。錦絵・浮世絵の絵師として高い評価を受けてもそこに安住せず、スケッチ集「北斎漫画」、読み本の挿絵、写実的な肉筆画など常に挑戦を続けた。
己の望むことをとにかく突き詰めるという北斎の生き方は、現代の我々にヒントを与えてくれるのではないだろうか。
(了)
【深水 央】
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