2024年11月23日( 土 )

【コロナで明暗企業(6)】日本製鉄と日立製作所~企業城下町の栄枯盛衰(中)

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 新型コロナウイルスの感染拡大は、全国の「企業城下町」の経済に深刻な打撃を与えた。企業城下町には大企業の工場に部品を納入する下請業者、孫請業者が幾重にも連なる。大手が工場を縮小・休止・閉鎖すれば、影響はそのまま地域全体に連鎖する。日本を代表する大企業である日本製鉄と日立製作所の企業城下町の栄枯盛衰をたどる。

鹿嶋市は旧住友金属の城下町だった

 日本製鉄は茨城県鹿嶋市の東日本製鉄所鹿島地区にある高炉1基の休止を決めた。

 鹿島地区は旧住友金属工業の基幹拠点である。住友金属工業が製鉄所を開いた1960年代以降、鹿嶋市は企業城下町そのものだった。市の人口6万7,000人のうち、正社員だけで約3,000人、関連事業者を含めると1万人を超える人が日本製鉄関連の仕事に就く。

 衝撃の大きさを、『日本経済新聞電子版』(2021年4月5日付)が「高炉の火消える城下町」と題して報じた。

 「日本製鉄がくしゃみすれば、市民は風邪を引く」。日鉄が大規模な設備の統廃合を発表した3月5日。市長の錦織孝一の漏らした一言が両者の関係を物語る。「まちづくりを一からやり直さなければならない」(錦織)ほどに追い込まれた。

 「固定資産税を減免します」。広島県での高炉休止が明るみに出た昨年2月以降、茨城県が日鉄に存続を求め続けた。接触した回数は事務レベルを含めると20回近い。水素製鉄の開発には50億円と「類のない規模」(茨城県知事の大井川和彦)の補助金を用意した。それでも日鉄の決断は覆らなかった。大井川は「受け入れがたい。かなりショックだ」と肩を落とす。

Jリーグの強豪、鹿島アントラーズを、フリマアプリのメルカリに売却

製鉄所 イメージ 今回の事態を予想させるような出来事があった。

 サッカー界に19年7月、激震が走った。Jリーグの強豪、鹿島アントラーズの経営権を日本製鉄が手放し、フリマアプリ大手のメルカリが取得すると発表したからだ。

 鹿島アントラーズの前身は、住友金属工業が創部した住友金属工業蹴球同好会だ。1991年には、ブラジルの名選手で後に日本代表監督となるジーコ選手を招きチームを強化。92年にJリーグが発足すると「鹿島アントラーズ」に移行。ジーコ氏ら、ブラジルの名選手や国内のスター選手を擁し、国内外で20のタイトルをもつ強豪チームになった。

 鹿島アントラーズは住友金属工業の代名詞となり、旧住金社員には愛着が深い。2012年に住金と新日本製鉄が経営統合した後も、旧新日鉄がスポンサー契約を認め、社内融和に一役買った。

 しかし、19年4月、新日鉄住金から日本製鉄に社名が変更。社名から住金の名前が消えたように、旧住金勢は経営中枢から外れた。旧新日鉄にとって、鹿島は旧住金の遺産の1つでしかない。日本製鉄が、旧住金色をとどめる鹿島を手放した。鹿島アントラーズの売上高は約70億円で、加えて直近は黒字。売却額は16億円と超安値だ。

 東日本製鉄所には、君津製鉄所(千葉県、旧新日鉄)と鹿島製鉄所(茨城県鹿嶋市、旧住金) の高炉がある。旧住金の高炉を休止するのと同じ構図だ。

日立金属は日米投資ファンド連合に売却

 日立製作所は4月28日、中核子会社である日立金属を、日米の投資ファンド連合に売却すると正式発表した。売却先は、米投資ファンドのベインキャピタルと国内投資ファンドの日本産業パートナーズ(株)(JIP)、ジャパン・インダストリアル・ソリューションズ(株)(JIS)だ。

 日米投資ファンド連合はまず、日立以外の少数株主がもつ日立金属株の47%分の取得を目指し、1株2,181円で株式の公開買い付け(TOB)を11月ごろに実施する。これが成立すれば、日立は保有する53%分を3,820億円で売る。買収総額は8,166億円になる見込みで、日立金属は賛同している。日立金属は上場廃止になる。

 日立は、リーマン・ショックがもたらした世界的不況で09年3月期に7,000億円超の純損失を出したのをきっかけに上場子会社の整理に着手した。09年には22社あったが、日立金属の売却で、残るは日立建機1社のみ。その日立建機についても保有株の大部分を売却する方針。

 日立金属は、20年に昭和電工が買収した日立化成(現・昭和電工マテリアルズ)や、13年に日立金属が吸収合併した日立電線とともに「御三家」と呼ばれた中核子会社だったため、日立金属の売却は、ここまでやるかと驚かせた。日立金属は日立グループの創業企業であるからだ。

 日立金属の創業者は鮎川義介氏である。当時の最先端だった鋳物技術を習得するため、日露戦争が終わった1905年に米国に渡った。帰国後、日本に鋳物技術を移転しょうと10年、福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に戸畑鋳物(現・日立金属)を創設。これを母体に、日産自動車、日立製作所を擁する日産コンツェルンを築いた。

 戦後、日産コンツェルンは解体。日立金属は日立製作所のグループ会社となった。日産自動車のルーツである鮎川義介氏の戸畑鋳物(現・日立金属)の北九州市戸畑区の工場跡地には、イオン戸畑ショッピングセンターが進出した。大型ショッピングセンターの入り口に「戸畑鋳物(株) 発祥記念の碑」がある。

(つづく)

【森村 和男】

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