2024年09月12日( 木 )

長崎被爆76周年 平和祈念式典に想う~DEVNET INTERNATIONAL・アザーニュース(後)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 Net I・B-Newsでは、世界の有識者約14,000名に配信しているニュースサイト「OTHER NEWS」(配信言語は英語、スペイン語、イタリア語)に掲載されているDEVNET INTERNATIONALのニュースを紹介している。DEVNETは日本に本部をもつESCOS認証カテゴリー1に位置付けられている一般社団法人。今回は長崎被爆76周年の平和記念式典に関する記事を紹介する。

   広島・長崎を併せての被爆者総数は2021年8月9日現在18万9,163人、平均年齢は 83.94歳、高齢化と減少が進む。長崎市においては原爆投下により1945 年末までの死者数は 7万3,884人、であった。放射線に直接さらされた場合(一次被爆者)だけでなく、救援などのために被災地に立ち入り、残留放射能を浴びた者も被爆者(二次被爆者)と呼ぶことが多い。また、胎児の時に放射能を浴びた「胎内被爆者」、被爆者の子は「被爆二世」、その孫は「被爆三世」と呼ばれる。「被爆四世」までもが生まれ、原爆の被害は未だ深く静かに拡がっているのだ。

 今年「平和への誓い」を読み上げるのは岡信子さん(92)。県内外の20人(男性12、女性8)の応募者から選ばれた。16歳の時、爆心地から1.8 kmの自宅で被爆した。終戦後は被爆者への偏見にさらされ、「原爆は思い出したくもない。話してもわかってもらえるはずがない」と思った。15年ほど前に亡くなった夫、今は離れて暮らす2人の子どもにも話さなかった。当時のことを語るようになったのは、被爆から70年以上経ったここ数年のことだ。

 「残された者の務め」「人生最後の門出」と思い平和祈念式典に臨んだ。以下は被爆者代表 岡信子氏による平和への誓いである。

「平和の誓い」を読み上げる岡信子さん ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

 当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪の大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。

 8月9日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我(けが)を負いました。

 被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシュットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似(みようみまね)で救護に当たりました。3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、2階3階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

 不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、瓦礫(がれき)で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善へ戻ったりの返り繰しでした。大怪我をした父を時津(とぎつ)国民学校でやっと捜すことができました。「お父さん生きていた!私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱きつきました。

 父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後のお乳を含ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まりました。

 今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

 今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

2021年8月9日
被爆者代表 岡 信子

 

21 世紀の現在においても人類の学びは足りないのではないだろうか。戦争で核兵器を使用することを公言するような国があるということ自体が、そのことを証明している。

 『被爆者』、この言葉を知らない日本人はいないが、世界ではどうだろうか?非戦闘員である一般市民に向けて使用された核兵器、その恐ろしさは体験したものでなければ分からないことだろう。原子爆弾により身体に、精神に深い傷を負った被爆者は、毎年減っている。

 勇気をふるって自らの体験を述べてくださる岡信子さんの言葉は心に突き刺さる。私たちはもっと被爆者の声に耳を傾け、多くを学ばなければならない。

DEVNET INTERNATIONAL 総裁 明川 文保

黙祷をする明川文保総裁

(了)

(前)

関連記事