2024年11月14日( 木 )

『脊振の自然に魅せられて』50年来の想いを実現、旧水無道復活事業(後)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

計画から3カ月で旧水無道の復旧と大量のゴミ処理を完了

 少女の母親は5年前までその家に住み続けた。我々が訪れた際、家は朽ち果て、生活ゴミが散乱していた。その後、仲間が集まってゴミ処理を行った。愛する会の筆者、 副代表T、後輩 Hも参加。後輩Hは曲渕ダム周辺で育ち、西野さんと縁がありそうだと思い、筆者が声をかけたのだ。

 家から生活ゴミが次から次に出てきたため、早良区役所から援助してもらった土嚢袋では足りなくなった。集めたゴミをどう処理すればいいだろうかと悩んだ筆者は、交流のある早良区役所生活環境課に相談した。生活環境課とは2年前、脊振山直下の大規模な不投棄ゴミ処理を一緒に行っている。

 担当係長は「山のゴミとして処理しましょう」と即答した。

 この地は室見川の源流で、登山道入り口には室見川橋もある。野河内渓谷から水無鍾乳洞までは林道が続いている。筆者は花の撮影時に林道を歩き、途中まで車で行けることを確認していた。そこで「車で行ける所までゴミをおろします。そして、ここにゴミを集めるので区役所で回収してほしい」と依頼した。

 担当係長は「10月は不投棄ゴミのパトロール月間なので、そのタイミングで処理しましょうか」と言ってくれた。しかし、こちらのゴミ回収のほうが間に合わない。そこで「日にちが決まったら連絡します」と伝えた。

 愛する会の会員で、筍事業者のTが小型トラクターを提供してくれ、チェンソーで登山道の倒木処理までやってくれた。土嚢袋は300にもおよんだ。

 参加可能なメンバーが週末ごとにゴミ処理を行った。その後、糸島市生活環境課も協力してくれたこともあり、10月末、活動9回目ですべてのゴミ処理が終わった。

 計画から3カ月という短期間で旧水無道の復旧と大量のゴミ処理ができたのは、ひとえに山を愛する気持ちからだ。

住居跡のゴミ処理をする山仲間たち
住居跡のゴミ処理をする山仲間たち

 「旧水無道に道標をたてよう」ということになり、愛する会の倉庫にあった予備の支柱2本を提供した。道標の文字は、糸島のトンカチ館にレーザー加工を依頼した。筆者は自宅のベランダで、レーザーで彫られた文字に白ペンキを何度も重ね塗りした。

 11月3日(水・祝)、関係者8名が集まり、愛する会からは筆者を含め3名が参加。私がリーダーとなり、道標設置作業を行った。

 愛する会は12年間、道標設置やメンテナンスを行ってきたので、道標設置に関しては「熟練の技」がある。井原山への旧水無登山道に1本、野河内渓谷への旧水無登山道に1本、計2本の道標を設置した。山への思いが強いYは「自転車、バイク侵入禁止」の立て札を2本たてた。支柱も方向板も防腐剤注入加工を行ってはいるが、念のため防腐剤塗料も上塗りしたため、風雨に10年は耐えられる。

 道標設置は午前中で終了。こうして旧水無道の復活事業は終了した。

 11月23日(火・祝)、作業に参加した山仲間30人が集まって開通式を行った。筆者は所用のため出席できなかったため、前日、西野さんに電話をした。

 「あなたの思いが人を動かした、『おめでとう』」と伝えて来春、現地で食事会をしましょうと提案した。

 山仲間たちは西野さんの50年来の想いを叶えたのである。事業に参加したメンバーはみな清々しい気持ちになったに違いない。

 この活動は西日本新聞の紙面で取り上げられ、西日本新聞社・山の季刊誌「のぼろ」 VOL34にも掲載されている。

旧水無道の道標設置を終えた仲間たち(右後列2人目が平田氏、後列左から2人目が副代表 T, 3人目が後輩 H 、前列中央が筆者。11月3日撮影)
旧水無道の道標設置を終えた仲間たち
(右後列2人目が平田氏、後列左から2人目が副代表 T, 3人目が後輩 H 、前列中央が筆者。11月3日撮影)
 

(了)

2021年11月25日
脊振の自然を愛する会
代表 池田 友行

(前)

関連キーワード

関連記事