【清々しい品格(7)】“清々しさ”を超えた傑物・丸松セム(株)八頭司正典会長
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こんな決算書を見たことがあるか!
まずは丸松セム(株)の65期決算書を参照してもらいたい。昔々、筆者は「給料取り」として、企業調査レポート4,300件を作成したとこれまで5回ほど述べたことがある。しかし、こんなに空恐ろしいというか、けた違いの感動的なバランスシートに接したことはない。税理士先生でもまずお目にかかるのは稀有であろう。
丸松セム(株)はアパレル事業5社およびリアルエステート事業4社のホールディングスカンパニーである。
まず同社の損益計算書から点検しよう!子会社からの上納金が収入となるから売上が即売上総利益に一体となるところまでは理解できる。経常利益率が対売上高の約50%となるところから驚きが強くなる。貸借対照表に目を転ずると恐怖すら覚える。無借金であることは想像がつく。ところが自己資本率が90%を超えていたのは想像を絶した。売上に対していくら預金があるのかを調べると現預金が12億円を超えている。同社の売上は3億4,000万円程度である。現預金が売上の3.5倍に達するということになる。皆さん!こんなバランスシートにお目にかかったことはないでしょう(2022年5月期)。
セムグループの決算書にはさらに震撼させられる
セムグループ事業部は、アパレル事業とリアルエステート事業という2つの中核事業がある。アパレル事業を構成する会社は5社で、リアルエステート事業は4社になる(2021年5月期)。同グループの事業は家賃収入である。建物・土地で29億円保有している。だが銀行からの借り入れがゼロ(関連会社からの3億円はある)。貴方は不動産業者(家主業)で、借入ゼロで、自己資金で廻している会社を知っているか!お目にかかったことはなかろう。
さらに驚愕の事実を知った。このリアルエステート事業は現預金を17億円強も保有している。年商11億2,900万円をはるかにしのぐ資金(現預金)があり、これは不動産売買を自己資金で充当できることを意味する。専門的になってくるが、29億円の事業不動産で売上高11億2,900万円をあげるということは不動産売買も絡めてくるということか。自己資本比率はホールディングス会社、アパレル事業、リアルエステート事業で、それぞれ96.1%、75.9%、88.9%である。不動産事業(リアルエステート事業)で88.9%の自己資本比率を堅持している企業はほかにはないだろう。唯々、感服するのみ。
原点は佐世保にあり
丸松セムグループは創業75周年記念式典事業として20年5月に『セムグループHIStory』を発刊した。その資料を抜粋して紹介しよう(詳細は別途、当サイトで報告する)。
八頭司会長は1941年生まれ。一族では糸・着物など何でも扱って商売をしていた。一族には商才のある方々がおられたそうだ。同氏もその才覚が脈々と流れていたのであろう。2020年を創業75周年としているのは、終戦の1945年に事業を開始しているからである。法人化したのは47年となっている。
八頭司会長は佐世保商業高校卒業後、60年から63年の3年間、大阪にて丁稚奉公を行う。面白い、ユニークな経験を積み上げて商売において成功すべき構成案件をすべて身につけていった。
八頭司会長は10代の時から独特の才覚を会得しているようである。63年から69年までが佐世保に戻り、己の事業実績を積んだ期間である。21歳のときに丸松商店(家業)に帰ってきた。当時の売上は年商7,000万円、行商人相手の商いで、社員は14~15名だったとか。
大阪・船場で学んだ新しいかたちの問屋に改めたところ、他社との差別化(体制改革)につながった。またすばらしい人材が集まってきたことで売上は「倍々」に伸びていった。商圏も従来の上五島、北松、伊万里、武雄から下五島、島原、長崎、佐賀、壱岐・対馬、そして福岡へと進出した。
69年には長崎県随一の繊維問屋となった。若さ溢れる八頭司会長が目指すところは明確である。福岡に進出して一番を目指すことである。
博多に進出、一瞬にして基盤を築く
いずれ福岡が九州の中心になると思い、69年の末に妻と幼い子ども、取引先の若い店員(19歳と17歳)の2人を連れて博多駅前問屋街(現:博多区冷泉町)に店を構えた。家賃5万円の売場と事務所、社員と家族の住居を兼ねた三部屋であった。新規開拓が1日5件位あり出荷に大わらわであった。70年4月には月商3,300万円、粗利が1,280万円、経費が75万円、月の利益が1,200万円を記録した。
福岡進出1年にして冷泉町で隣のビル50坪を915万円で買うことにした。この不動産を管理する目的でハッショウ産業(株)を設立したのが、現在のリアルエステートグループへとつながっていく。74年の売上は、福岡では14~15億、佐世保と合わせると30億円近くとなり、九州のベスト10に入った。店舗のある冷泉町の隣が店屋町である。九州の繊維問屋の中核ゾーンには錚々たる同業者たちが群がっていた(結果、大半が淘汰された)。
74年に福岡流通センター進出
都市福岡の発展にともない、博多の街の中心部に繊維街(店屋町)が雑然と立ち並んでいる光景は古臭くなってきた。「中心部に物流でトラックが往来するのはいかがなものか」という議論が沸騰し、65年ごろから福岡市東区の多の津に福岡流通センターを設置する計画が持ち上がった。その結果、74年に建設・オープンされた。69年に佐世保市から進出し、わずか5年足らずで八頭司会長が福岡流通センターに進出したのだ。この進出が丸松セムグループの今日の基盤を築いたといえる。
75年3月、新幹線が博多まで延伸された。ここから都市福岡のさらなる躍進が始まった。「明太子ブランド」が日本全国に浸透したのは、この新幹線のおかげである。この勢いに乗じて「福岡流通センター」は一世を風靡した。この流通センターの雄であったメンバー企業群は事業規模をケタ違いに進展させた。だが、その勢いは90年までである。本当に栄枯盛衰のモデルがこの「福岡流通センター」であった。佐世保からやってきた“よそ者”八頭司会長は、「博多の同業覇者」と目されていた企業が倒産して消えていく光景を目の当たりにして改めて経営の原点に立ち返った。
流通センター再構築にかける
丸松セムグループには大躍進の機会が2度あった。昭和50年代初頭の拡大路線だ。九州一円を押さえて京都、東京に拠点を構えた。南青山にビルまで買った。ところがあまりにも売上至上主義に走ったことで莫大な売掛金が発生した。この回収に躍起となり、どうにか平常期に収められた。ここで拡大にブレーキをかけた。
もう1点の拡大路線は93年当時、「1,000億円戦略」を掲げたことである。京セラ創業者・稲盛氏との出会いから経営指導を仰ぐことになる。別府の杉乃井ホテル再建に注力していたことは今回の取材で初めて知ったが、八頭司会長は何事にも挑戦する人なのである。
売上高250億円(グループ)規模になった際に均衡経営の方向へ舵取りを切ったのが2001~2003年であった。そして冒頭に紹介したバランスシートの企業群となっている。「攻めと退く」という経営の妙をみせつけた同氏の手腕は見事というほかない。
さて福岡流通センターには一時、「幽霊事務所」が続出していた。その度に空き物件を買収したこともある。しかし、出来て50年を目前にしている福岡流通センターの再活性化プロジェクトの具現化が待ったなしの状態である。八頭司氏は長年、この再活性化プロジェクトの会長として貢献してきた(現在、名誉会長職)。原案は大方、煮詰まってきた。
福岡流通センターには、博多の名門繊維問屋がひしめいていたが、今や跡形もない。福岡に進出して52年になる八頭司会長が「福岡流通センター」復活の旗振り役になっているのだ。この再開発が単なる物流業界にとどまらず、福岡東部地区のまちづくりの一翼を担って貰いたいものである(別レポートあり)。
法人名
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