2024年07月17日( 水 )

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 NetIB-Newsでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事を抜粋して紹介する。今回は、「旧統一協会と深い関係を有するのは自民党清和政策研究会だけでない」と指摘した8月24日付の記事を紹介する。

国際勝共連合が創設されたのは1968年のこと。67年に笹川良一氏が本栖湖畔の施設に文鮮明氏、児玉誉士夫氏の代理人、日本統一協会初代会長を招き、「アジア反共連盟」の結成準備を話し合った。しかし、日本の右翼陣営の不一致によりこれは実現しなかった。

その後、本栖湖会談の精神を受け継ぎ、68年に「国際勝共連合」が創設された。創設した主体は旧統一協会。

旧統一協会は54年に韓国で世界基督教統一神霊協会として創設された。日本で(宗)の認可を受けたのは64年。当初の本部は渋谷区南平台の岸信介氏宅隣接地に置かれた。68年の国際勝共連合創設に際しては岸信介氏が後ろ盾になったとみられる。

岸信介氏、笹川良一氏、児玉誉士夫氏には強いつながりがある。3名はそろって48年12月24日に釈放されたA級戦犯容疑者である。前日の12月23日にA級戦犯7名に対する絞首刑が執行された。運命は天地に分かれた。

この戦犯容疑者釈放に深く関わるのが米国の対日占領政策路線の転向だ。GHQの対日占領政策は民主化・非武装化路線から非民主化・思想弾圧・再軍備化に転向した。

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「逆コース」と表現される変化が生じた。占領当初の民主化を主導したのがGHQ・GS=民政局。転向後の「逆コース」GHQを主導したのがGHQ・G2=参謀2部である。

参謀2部を率いたのがウイロビー少将。吉田茂はウイロビー少将と関係を築き、首相の座に返り咲いた。岸信介氏釈放を主導したのもウイロビー少将であるとみられる。

47年を転換点にGHQの対日占領政策の根幹に「反共政策」が置かれた。「反共活動」こそ、47年以降の対日占領政策の根幹を成したと言ってよい。この過程で68年に「国際勝共連合」が創設された。

韓国で創設された旧統一協会は当初、反共政策を掲げていなかったとされる。旧統一協会に対する厳しい視線が存在した。このなかで、「反共政策」を掲げることによって朴正熙軍事政権、KCIAの庇護を受けることに成功。その戦術を日本に持ち込み、「反共政策」を基軸に日本における地保を固めたとみられる。

しかしながら、旧統一協会の教義には、「先祖の犯した植民地支配という罪を償うため日本人信者はあらゆる献金をし、先祖解怨をし、懺悔する気持ちで献金をしなさい」というものがある。

北海道大学大学院の櫻井義秀教授は、「原理講論(教典)に韓国語版と日本語版があって、韓国語版には植民地支配がいかにひどいものだったか書かれていて、日本語版にはそれがない」「“恨みを解く”ことが統一教会の本質で、植民地時代の民族的恨みを解くこととして、日本で資金を調達してそれを韓国にもってきて世界的な活動に使うことが統一教会の本質を成しているんだと思う」と述べる。

「反共政策」と「反日教義」が基軸になっていると言ってよいだろう。米国の占領政策は「反共政策」を軸に展開されることになったが、このなかで60年に民社党が創設された。野党のなかに対米隷属勢力を埋め込む戦術。その民社党の支持母体として創設されたのが「同盟」。この民社党も「反共活動」の拠点になった。

55年に立教大学総長に就任した松下正寿氏は67年に自民、民社推薦で東京都知事選に出馬し、落選したが、翌68年に民社党から参院東京選挙区に出馬して当選した。

74年には旧統一協会が主導する世界平和教授アカデミー初代会長に就任。その後、松下氏は民社・同盟系の富士社会教育センター(富士政治学校)理事長を務めた。現在の(連)長・芳野友子氏はここで反共政策の研修を受けた。

旧統一協会と深い関係を有するのは自民党清和政策研究会だけでない。民社党、同盟=連合六産別が反共活動の尖兵として行動してきた歴史がある。47年以降の「逆コース」日本における「反共活動」全体について、正確な知識と理解を持つ機会が生み出されたことは不幸中の幸いだ。

※続きは8月24日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」「泉・岡田立憲民主なら消滅確定」で。


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