2024年12月27日( 金 )

被爆者代表に糾弾された安倍首相

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 NETIBでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事から一部を抜粋して紹介する。今回は、長崎で行われた平和記念式典で被曝者代表の語った「平和への誓い」について触れた、8月9日付の記事を紹介する。


 70年前の1945年8月9日午前11時2分、米国は長崎にプルトニウム原子爆弾ファットマンを投下した。原爆投下により長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が殺害された。負傷者も7万人超に達した。米国による民間人大量虐殺=ジェノサイドが繰り返された。罪なき市民が米国によって大量虐殺されたのである。

 この長崎で、被曝70周年の平和祈念式典が開催された。田上富久市長は平和宣言で、国会審議中の安全保障関連法案に言及し、政府や国会に慎重な審議を求めた。安倍晋三首相は来賓として挨拶し、核兵器のない平和な世界を希求することを述べたが、白々とした空気に包まれた。

 式典に参列した人々の心を貫いたのは、被曝者代表として「平和への誓い」を語った谷口稜曄(すみてる)氏の言葉だった。

 「70年前のこの日、この上空に投下されたアメリカの原爆によって、一瞬にして7万余の人々が殺されました。真っ黒く焼け焦げた死体。倒壊した建物の下から助けを求める声。肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人。かぼちゃのように膨れあがった顔。眼(め)が飛び出している人。水を求め浦上川で命絶えた人々の群れ。この浦上の地は、一晩中火の海でした。地獄でした。地獄はその後も続きました。火傷(やけど)や怪我(けが)もなかった人々が、肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、救援・救護に駆け付けた人々が、突然体中に紫斑が出、血を吐きながら、死んでいきました」。
 「70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。爆心地から1.8キロの住吉町を自転車で走っていた時でした。突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩きつけられました。しばらくして起き上がってみると、私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、痛みも全く感じませんでした。それから2晩山の中で過ごし、3日目の朝やっと救助されました。3年7カ月の病院生活、その内の1年9カ月は背中一面大火傷のため、うつ伏せのままで死の淵をさまよいました。そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動いているのが見えます。肺活量は人の半分近くだと言われています」。
 「かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。あの日、死体の山に入らなかった私は、被爆者の運動の中で生きてくることができました」。

 壮絶な被曝の真実を語った谷口稜曄氏。谷口稜曄氏は安倍晋三氏に対してこう述べた。

 「戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません」。

 さらに、こう宣言した。

 「核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います」。

 安倍晋三氏が主権者国民多数の声を踏みにじって強行制定しようとしている戦争法案を、私たち日本の主権者は、必ず葬り去らねばならない。

※続きは8月9日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」第1213号「被爆者の正鵠射た指弾に狼狽する安倍晋三氏」で。


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・植草一秀の『知られざる真実』

 

 

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