2024年12月24日( 火 )

知っておきたい哲学の常識(13)─日本篇(3)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

「愛」は日本的でない?

おしどり イメージ    市ヶ谷で割腹自殺を遂げた作家の三島由紀夫は「日本に愛はない」と言った。「愛」は英語のラヴの訳語で、日本では愛のかわりに「恋」があるからだと。

 日本には「愛」という言葉がないわけではない。しかし、この言葉が男女関係に用いられることは限られており、三島が言うように「恋」のほうが使われる。「恋愛」という言葉もあるが、これもどちらかといえば「恋」であって、「愛」ではない。

 現代の若者なら「愛している」を使うかもしれない。しかし、その意味内容がどうかというと、やはり「恋」に近いのではないかと思われる。三島の言ったことは正しかったように見える。

 しかし、彼の言ったことは男女関係については合っているかもしれないが、夫婦関係となるとそうでもない。まして、親子とか兄弟とか師弟関係となると、これは「恋」ではなく「愛」なのである。「愛」という言葉は必ずしも西洋語の翻訳ではない。また、その意味内容も、明治以降の日本に生まれたものではない。

 たとえば、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』をみると、オシドリのオスを殺した男が、夢に現れた女に「なぜ私の夫を殺したのか」と詰問されて、「自分は殺してない」と答えたが、夢が覚めるときその女が実はオシドリのメスだったとわかり、あわてて床から這い出て殺したオスを入れた袋を開けてみると、中に殺したはずのないメスの死骸もあって、しかもそのオスとメスが互いのくちばしを噛み合わせているのを発見したという話がある。男は己の罪を深く感じ、オシドリの夫婦をねんごろにとむらい、自らは出家したという仏教訓話である。

 この話に登場する夫婦は鳥ではあるが、とにかく二羽が愛し合っていることはたしかであって、これは決して「恋」ではない。三島由紀夫はこの説話を知らなかったのであろう。あるいは、知っていて無視したかもしれない。

 鳥のオスとメスに夫婦愛をみるのは近代作家の志賀直哉も同じである。「幾月かの間、見て、馴染みになった夫婦の山鳩が、一羽で飛んでいるのを見ると余りいい気持ちがしなかった」と、「山鳩」という短編で語っている。作者志賀は残りの一羽が猟銃に撃たれて死んでしまったことを知っている。それで、「余りいい気持ちはしなかった」のである。

 志賀には中世の狩人ほどの仏心がなかったので、山鳩の一羽が死んだことにそれほど胸を痛めてはいない。しかし、その彼は近代作家のなかでは珍しいほど夫婦問題を多く扱っている。初期の「范の犯罪」「好人物の夫婦」もそうだが、長編『暗夜行路』も基本的に夫婦関係を扱った作品である。戦後になると、「老夫婦」「夫婦」といった作品も書いており、広い意味で「愛」を扱った作家なのだ。

 日本思想史をひもとくと、「愛」というものを最も高く評価した思想家は江戸時代中期の伊藤仁斎だとわかる。仁斎は儒学者であったが、彼の面白いのは中国産の儒教を日本化したところにある。

 といっても、彼としては自分こそは儒教の本質をつかんでいると確信していた。古代中国のテキストを綿密に解釈した結果、儒教の本質は「愛」だと確信したのである。

 儒教についてはいろいろな解釈があり、人によってはその本質は「礼」だといい、「忠」だという人もいる。一般には「孝」という言葉が行きわたっており、これが儒教の本質だとされている。しかし、仁斎によれば、それらの儒教の徳目はすべて1つの源から発している。その源が「愛」なのである。

 では、彼の言う「愛」とはなにか。曰く、「慈愛の心、渾淪通徹、内より外に及び、至らざるところ無く、達せざるところ無くして、一毫残忍刻薄の心無き」となる。すなわち、「愛」とは「残忍」も「酷薄」もまったくないことであり、「慈愛」であり、しかも世界中どこにでも流れ込んで止まるところを知らないものだというのである。

 これを今日的にいえば、「博愛」という語がぴったりするが、仁斎ならそうした語におさまりきらないのが「愛」だと言うだろう。なんとなれば、言語というものは生気の流れを止め、一定の意味に限定してしまう。それでは「愛」はつかめない。

 そもそも仁斎は、この宇宙を大きな流れと考えていた。それは生気に満ちたもので、止まるところがない流れなのである。つまり、世界とはエネルギーであり、そのエネルギーは世界を創造し続けている。この生気の流れが感情レベルで現れたとき、それを「愛」というのである。

 このような壮麗な思想が鎖国時代の日本に生まれたことを、現代の日本人はもっと知るべきだろう。「愛」というものが生命エネルギーの発露であるという普遍的な思想が、京都の堀河の一隅に生まれたとは驚くべきことではないか。三島由紀夫のように「愛」は西洋のものなどと決めつけてはいけない。私たちの文化遺産は、そこからおいしい水を汲み出すことのできる泉を多々たくわえている。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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