2024年12月24日( 火 )

知っておきたい哲学の常識(19)─日本篇(9)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

西田哲学はここがすごい

パリのカフェ イメージ    もう十数年も前、パリで西田幾多郎について話をする機会を得た。そこには当時のフランスで日本をよく知るといわれる学者も来ていて、話が終わってからの質疑応答の時間で、その人が自分には日本文化の分からない側面があったが、今日の話でスッキリしたと言ってくれた。

 なかに若い人がいて、興奮した表情で、日本人が哲学を語るなんて僭越ではないですか、というようなことを叫んだ。あまりに激越な調子だったので、かえってこちらは冷静になれた。哲学を語るのに僭越ということはあり得ません、と落ち着いて答えることができた。

 今思い出しても信じられないのは、その若者の興奮である。なにがそこまで興奮させたのか。あとで、それを聞いていた青森出身の日本人が、あれは話が面白すぎて悔しかったんですよと真顔で言ってくれたが、それでも腑に落ちなかった。

 そのときは思いつかなかったが、哲学とはギリシャ語のフィロソフィアの翻訳語で、フィロは愛好の意味、ソフィアは智慧の意味だ。智慧を愛好するのはギリシャ人にかぎらず誰でもできることなので、日本人が智慧を愛好して少しも構わなかった。あの若者は完全に間違っていたのだ。

 断っておくが、フランスの若者が皆そんなおかしなことを言うわけではない。むしろ逆で、大抵は極めて常識があり、相当の知識もあり、私は教わることが多かった。

 たとえば、地下鉄サリン事件のことがフランスで話題になったとき、たまたまパリのカフェでコーヒーを飲んでいたら、隣のテーブルにいたベトナム人らしき若者がいきなり私に向かって、「どうして日本人はあんなことをするんだ」と食ってかかってきた。すると、その横にいたフランス人の女性が、「事件と国籍は関係がない、どの国にもテロリストはいる」とバッサリ切り捨てたのだ。その女性も通りがかりだったようなので、フランスという国は他人に無関心な人が多いのに、こと政治や哲学の話題になると誰でもが口を出す不思議な国だと思ったものだ。

 それにしても西田幾多郎である。私の話した西田があの興奮した若者に僭越と映ったのは、もしかすると西田にも原因があるのではないか。というのも、西田は明治の人で、当時の多くの知識人が留学した西洋に行ったこともない。しかし、大変な努力で古代ギリシャから彼の同時代までの西洋哲学を徹底的に習得しただけでなく、そのなかで自分の糧となると思われたものを吸収し、そこから自らの哲学を打ち立てたのである。これだけでも、すごいことなのだが、そのすごさが僭越と映ったのではないか。

 もっと正確に言えば、西田は西洋哲学の根幹にあるものをつかみ、それでは不足があると見て、それにかわる提案をした。その提案こそが私にすればすばらしいものなのだが、それが西洋人のなかの何かと抵触し、それが感情的爆発を生んだと思えるのだ。

 話が抽象的すぎるので、西田の提案そのものを紹介する。西田によれば、西洋哲学は人にしても、物にしても、文脈なしに存在するという前提に立っている。すなわち、私はいるし、生きている。死ぬまで私は私である。そういう前提がある。ところが、実際には人も物も必ず文脈のなかにいる。すなわち、他のものと関連して存在する。したがって、西洋哲学の前提となっている存在という考え方は、相対化されざるを得ないということになる。

 つまり、西田が提案したのは文脈ということである。文脈あっての私、という思想なのである。その文脈を彼は「場所」と呼んだ。その場所はそれ自体としては空気のように空っぽで、その場所にいることで人や物は存在できる。したがって、彼はこれを「無の場所」とも呼んだのである。

 その無の場所で私は他者と出会い、関係をもつ。しかし、両者とも無の場所に依存しているので、そこから完全に独立することはない。しかし、同時にまたこの両者は、完全にその場所に従属するわけでもなく、両者の関係がそのまま場所全体の性格を形成していくのである。つまり、場所と場所のなかにいる存在とは相互に影響し合う。西田はこの考え方を提案したのだ。

 言われてみればその通りの考え方だが、西洋哲学には欠けているものだった。しかも、同じ西洋でも物理学者なら納得のできる内容だったのだ。なんとなれば、物理学では電磁場ということをいう。地球全体が大きな電磁場である、などともいう。地球のすべてがこの電磁場に影響を受けており、同時に地球のすべてがこの電磁場を生かしているのである。

 ここまで書いてきて思った。もしかすると、西田は物理学の世界では自分の理論が通用すると知っていたかもしれない。であるならば、彼はある程度自分の理論に自信があったにちがいない。そうであれば、その自信が例の激昂したフランスの若者には僭越と映った可能性がある。

 妙なことだが、あの若者にもう一度会ってみたい気がする。あの反応は、少なくとも正直なものだったのだ。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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