2024年12月24日( 火 )

知っておきたい哲学の常識(23)─西洋篇(3)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

 

理屈に合わないことがあってはいけないか?

古代ギリシャ イメージ    ピタゴラスの定理というのを学校で習った。直角三角形がどうのこうのという定理である。よくもそんなことを考えたものと思うのだが、古代ギリシャには円周率πを計算した人もいる。

 ピタゴラスは数を崇拝するカルト集団の教祖だったという。ほんとうか嘘か知らないが、教団のなかに無理数を発見した者がいたので、即刻この者を死罪にしたという。狂気の沙汰というほかないが、それほどに有理に執着したのだ。

 有理といえば、中国共産革命の主導者毛沢東が放った言葉に「造反有理」がある。造反、すなわち権力やシステムに逆らうことには理があるという意味である。では、どんな造反でも理があるのかと問いたくなる。ピタゴラスが無理数を拒んだのと、どこか通じるものがある。造反には必ず理があるというのなら、単なる暴力の肯定である。

 フランスでは「理」(レゾン)という言葉がよく使われる。彼らフランス人は有理の民族、合理的な国民を自認している。フランス語で「君は正しい」は「君には理がある」と言う。英語なら「君は正しい」の「正しい」は形容詞なのに、フランス語では「理」という名詞がくる。

 毛沢東に戻れば、中国も理を重んじる国だ。江戸時代の日本の知識階級はいずれも中国産の朱子学を学んだわけだが、この哲学の根本は理なのである。宇宙は理と気からなっているが、この2つのうち中心となるのは理であった。

 ところが、面白いことにそういう朱子学を学んだ日本人のなかに、これに異を唱える者がいた。京都の伊藤仁斎は理より気のほうが大切であり、理は気から生まれたとまで言っている。

 人災の考え方は日本らしい。日本語では理より気のほうが愛好されているからだ。「気分がいい」「気持ち悪い」「気力充実」「気前がいい」など気を遣った表現は五万とある。ところが「理」となると、「理屈っぽい」という表現があるように、どちらかといえば堅苦しさを感じさせる。日本人は理より気を好む民族のようだ。

 とはいえ、「無理が通れば道理引っ込む」といった表現もあるように、日本人も無理なものは嫌である。「理」を無視しようとは思っていないのだ。いくら「気」が根本であっても、「気」だけではどこへ行くかもわからず、収拾がつかなくなる。人さまにも迷惑がかかる。やはり「理」は必要なのだ。

 古代ギリシャに話をもどすと、もともと「理」の原意は「割合」とか「比例」といった意味だそうだ。円形のケーキを5人で分けるときの1人分を「理」と言ったのだそうだ。1人が大半を占めるのではなく、均等に分ける。すると、すっきりする。そういうことだったようだ。

 先にピタゴラスは有理に執着したと述べたが、つまりは「割り切れる」ことに執着したのである。無理数というもの、たとえばルート3は割り切れない数だから嫌悪したのである。ところが、この世の中、割り切れないことが多い。ピタゴラスにはこれが我慢ならなかったようだ。

 彼が秘密結社をつくったのも、ひたすら割り切れる数に浸り込み、それ以外は切り捨てたかったからであろう。彼の結社は割り切れることを信条としたのだ。そういうわけだから、無理数を発見した天才は許せなかった。なんという狂気だろう。

 そういうピタゴラスは今から見れば古い考えの持ち主だったのか。否、彼のような割り切れないことを嫌う心性は現代にまで残っている。端的な例はヒトラーとその周囲にいたナチス党員たち。彼らは現代のピタゴラス的カルト集団で、ユダヤ人という割り切れない集団を抹殺せずにいられなかったのだ。

 カミュ作『異邦人』の主人公も理由なく人を殺したことで厳しく罰せられている。殺人にも理が必要なのだ。無理数は認められないのである。

 今の日本に、自分たちの集団を乱す人々が現れたとしよう。日本人のなかにもピタゴラスのようにその人々を無理数として片づけようとする人がいるのではないか。人間というものは、どうも信用できない。とんでもない理屈を立てて、他者を抹殺したがるのである。

 だが、そうであってもなお、西洋がなによりも有理を求める世界であることを知っておいた方がいい。合理的なものしか受けつけない伝統があるのだ。「我思う、ゆえに我在り」といったデカルトも有理の人であった。

 虚数といった常識ではあり得ない数が発見されたとき、彼はこれを計算には便利だが、想像力の産物に過ぎないと切り捨てた。これに対してライプニッツという同時代の哲学者は、虚数は想像上のものではなく神の叡智が宿っているのだと主張したが、これが陽の目を見ることはなかった。西洋では依然として合理主義が強く、理に対するその執着は非合理なほどなのである。

 「ミイラとりがミイラになる」というが、無理を嫌悪しすぎれば理を失う。有理への執着には理はないのである。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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