2024年11月22日( 金 )

知っておきたい哲学の常識(24)─西洋篇(4)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

思考には否定形しかない

西洋の古い本 イメージ    かつての日本では、アランという人のエッセーが読まれていた。体系的な本は書かず、簡潔にして味わい深い文章を書く市民哲学者ということになっていた。

 アランの文章は最初の一行にインパクトがある。「考えるとは、いいえと言うことです」と始まる文章は、今も忘れられない。「誰にいいえと言うのですか?先生に?論敵に?いいえ、自分自身にです」と続く。

 これには参った。なんとなれば、私自身、なかなか「いいえ」と言えないタイプだったからだ。先生にも言えないし、論敵にも言えない。だからといって、自分にも言えない。

 いいえと言うとは否定するということである。否定はネガティブな行為だから楽しくはない。自分自身にいいえと言うのは、自分自身を否定することである。これが楽しいわけがない。

 アランはデカルトの国の人だから、すべてを疑ってみてこれだけは確かだと確かめることを「いいえと言う」と言ったのかもしれない。しかし、怠け者には「はいと言う」ことのほうがはるかに楽であり、アランの言うことはなかなかにキツい。

 万人向けのヒューマニズムを盛り込んだ映画づくりにかけては人後に落ちない監督といえば、スティーヴン・スピルバーグであろう。その彼は「あなたが一番好きな言葉は?」と聞かれて、「はい(Yes)という言葉だ」と答えた。これを聞いて、なんと幸せな人だ、なんとノーテンキなんだと思ったことがある。

 彼の映画は多くの人を感動させるのだが、あとですぐ忘れてしまう。すべてが出来合いの味付けなのだ。やはり、何ごともYesではなく、Noであるべきなのだろう。

 ソクラテスといえば賢者の代表格とされてきたが、彼の面白いのは、これが真実だと積極的に言える能力がなかった点である。これは真実ではないという判別はできるのだが、これは真実だと言う力がないというのだ。つまり彼のスタンスは、何ごとについてもネガティブに見ることはできても、ポジティブには見られないということだ。これはどう見ても、やはり、すごい。

 そういう彼が多くの若者を魅了したとすれば、市民の平安を乱す者として死刑になったとして無理からぬことだ。肯定は快楽だが、否定は不快なのである。

 人も殺さず、盗みもしない彼がどうして死刑になるのか。その言説が共同体の神話に抵触するからだ。神話というものは否定してはならないものだ。これに疑問を挟んでしまっては、神話は成り立たない。ソクラテスは正面切って神話を否定していないが、彼の言説は否定の連続で成り立っており、しかも彼にはある種の影響力があった。アテネ市民の敵ということで抹殺されたのである。

 そういう点では仏教の元祖ゴータマ・シッダルタのほうが穏健だった。というより、この人の方がソクラテス以上に否定に徹していたのである。否定を続けていけば、否定そのものが否定されて肯定に転ずる。そこまで行ってしまったあげく、否定も肯定もどうでもよくなるところまで行ってしまったのだ。

 「色即是空」だけだったら、この世の否定で終わる。しかし、「空即是色」と来れば、否定されたものがまた戻ってくる。この往還の思想はいかにも気楽そうだが、実際はちがう。否定に満ちているからだ。

 教科書裁判で有名な歴史家の家永三郎は、鎌倉時代の仏教によって日本人は否定ということを知ったと言っている。それまではノーテンキな神話の民だったというのだ。同じようなことを禅の大家の鈴木大拙も言っている。否定が生まれたから初めて肯定も生まれたというのだ。大拙曰く、「山は山である、しかし山は山ではない、だから山は山である」。妙な論理である。この妙な論理も否定を含んでいる。

 アランが言ったように、否定がないと思考は始まらない。しかし、思考にはまり込めば、今度は現実が見えなくなる。この危険を察知したのがインドの仏陀で、彼なら西洋の否定の哲学を危険な道、あるいは不徹底な思考と見なしただろう。もしかすると、彼の周囲にもそういう危険思想が充満していたかもしれない。

 あるとき、神話の終焉が哲学の始まりだと聞いたことがある。しかし、人類は神話なしに生きられないということも聞いた。では、人類はどうして哲学などという厄介なものをもつようになったのか。神話に包まれて生きたほうが、否定を知らずに幸福でいられたのではないか。

 そうではないだろう。神話は必ず崩壊するものである。神話にしがみついている者は、神話が崩壊したらどうしようもなくなる。それまでの快楽が泡と消える。一方、否定を知る者は神話から自由になれる。それが崩れても生き延びられる。幸福と快楽はちがうと知っているからだ。

 実際、幸福は神話が与える快楽とはちがう。それはどんな不快をも乗り越える力を与えてくれるわけではないが、不快も快感も乗り越えたところに生まれ出ることを可能にする。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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