日航機墜落の闇を伝えぬ暗闇
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NetIB-Newsでは、政治経済学者の植草一秀氏のメルマガ記事を抜粋して紹介する。今回は、12日に38年目を迎えた日航ジャンボ機123便墜落事故について、目撃者の証言や事故調の資料にもある数々の“不可解な事実”に一切触れぬまま、つまり政府や大企業に都合よく創出された情報空間のもとに市民を置いたまま、事故を闇に葬ろうとする我が国メディアの病理を指摘する8月13日付の記事を紹介する。
日航ジャンボ機123便が群馬県上野村高天原山尾根付近に墜落して38年の時間が経過した。
主要メディアが38年前の123便墜落事故を報道するが、現在進行中の重要訴訟の事実に触れない。墜落から28年が経過した2013年9月に政府によって公表された重大事実についても一切触れない。この情報空間の歪みが日本の病根。政府、政治権力も腐敗しているが、メディアも腐敗している。
メディアが創出する情報空間の下で市民が暮らすが、市民は情報空間によって洗脳されてしまっていることを自覚していない。カルトから市民を救出するのが難しいのは、当該市民が洗脳されてしまっているがゆえに、現実の歪みを自覚できないことにある。
同じ現象が日本全体に広がっている。真実の情報を伝えれば、洗脳されている市民は、真実の情報をもたらす市民が正常でないと判断してしまう。真実の情報を提示する者が変人、狂人として取り扱われてしまう。深刻な現実が広がる。
1985年8月12日18時56分、JAL123便は群馬県上野村高天原山尾根付近に墜落。乗員乗客524名のうち、520名が犠牲になった。520名のなかに懐妊した女性が1人おり、胎児も含めれば521人が犠牲になった。
このなかで4名の乗員・乗客が救出された。救出されたJAL客室乗務員(当時)の落合由美さんが123便墜落直後の状況を証言した。
「墜落の直後に、『はあはあ』という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。『おかあさーん』と呼ぶ男の子の声もしました。」
墜落直後に多数の生存者が存在したことを生々しく証言した。しかし、政府の事故調査報告書は、「救出された4名以外の者は即死もしくはそれに近い状況であった」と記述した。誰のどのような証言をもとに報告書を記述したのか。
123便が群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)の尾根に墜落したのは1985年8月12日の18時56分。事故当時に横田基地に配属されていた米空軍輸送機C-130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉の証言が、1995年8月27日付「星条旗新聞」(Stars and Stripes)に掲載された。
「当機(アントヌッチ中尉が搭乗した米空軍輸送機C-130)は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2,000フィートまで降下する許可を得た。」
「墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。」
※続きは8月13日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」「日航機墜落の闇を伝えぬ暗闇」で。
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