【連載】党勢拡大に貢献もせず3選を目指す野田国義参議院議員(5)
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かつて全国最年少市長として世間の注目を集めた元八女市長・野田国義氏。小沢一郎氏の誘いを受け、2009年衆議院議員選挙で、秘書として仕えた古賀誠元自民党幹事長への刺客として立候補、比例区で復活当選した。13年に参議院議員(福岡選挙区選出)に転じ、現在に至る。衆参あわせ13年になるが、所属する政党の党勢拡大に貢献できていないどの声が聞かれる。本連載では、かつて北九州・福岡両市の首長ポストを押さえ、全国でも勢いがあった民主党(当時)が衰退した経緯およびそれに拍車をかけた野田氏の政治姿勢を問いたい。
(なお、本記事は政治メルマガの会員向けに以前に発信しているものと同じ内容のものですが、広く読者の方に読んでもらいたいとの想いから掲載しております)来年の八女市長立候補の噂
(3)で、「地元では『また市長に返り咲きたいのでは』との噂が流れている」と書いたが、先日同様の地元の話が伝わってきた。
「野田氏が八女市内の支持者宅を訪問し、次の八女市長選挙よろしくお願いいたしますと言ってきた」
こう話すのはある八女市議会議員。野田氏のことを日頃からよく言わない議員であるが、地元の動きには通じている。
八女市では来年11月に市長が任期満了を迎え、選挙が行われる。前回20年の市長選挙は、現職の三田村統之氏に対し、元県議で野田氏の妻である稔子氏と、前八女市議会議員・石橋義博氏(4月の市議選で当選)の三つ巴の戦いであったが、事実上は三田村氏と稔子氏の一騎打ちであった。
稔子氏は「勇気をもって変えてみませんか」というキャッチフレーズを掲げて、市長選に挑んだ。これは、1993年の市長選で、斉藤清美氏の5選を阻み、夫・国義氏が初当選したときの「変えてみませんか」を流用したもの。結果として、現職の三田村氏が再選したが、女性市長を誕生させようという市民の声があったことは事実である。
野田氏は小沢一郎氏に誘われ、09年の衆議院選挙に福岡7区(八女市や大牟田市、柳川市など)で立候補した際は「チェンジ」というキャッチフレーズを用い、自民党宏池会のオーナーで、道路族のドンと呼ばれた古賀元幹事長を約2万票差まで追い詰めた。小選挙区では負けたが、重複立候補していた比例九州ブロックで復活当選した。そこから野田氏の国政物語が始まった。
自民系からの側面支援
故郷でもあり、八女市長時代からの支持者が少なくない八女市にこだわるのは、こうしたことが背景にある。取材していて驚いたのは、今年4月の八女郡広川町長選挙に立候補した前町議会議員・竹下英治氏は、自民党員ではあるが野田夫妻と非常に親しいことである。
竹下氏はこう語る。「俺は自民党だけど、筑後の蔵内(勇夫)先生は八女高校の先輩で、ずっとお世話になっている。しかし、地元の古賀誠、藤丸敏(内閣府副大臣)とは考えが合わない。古い体質の自民党を応援するくらいなら立憲のほうが良い」。
竹下氏は19年の広川町長選挙にも挑戦し、現職(当時)の渡邉元喜氏に惜敗した。21年の筑後市長選挙に際して、蔵内県議側の宇野晶氏の選挙事務所に常駐し、全面支援した。つまり、八女地域において古賀氏の影響力を削ぐ活動に熱心といえよう。
渡邉氏は古賀氏に近く、今年4月の改選まで福岡県南地域における古賀派の筆頭首長であり、筑後市長選挙では現職の西田政治氏を応援した。
竹下氏は自民党員であり、航空自衛隊で空将補まで務め、保守団体「日本会議」の活動にも熱心である。立憲民主党の野田氏とは、政党や政策は違うが、古賀氏の影響力の強い渡邉氏に対抗する意味で、野田氏にとっては貴重な味方であった。
改めて地方政治の複雑さを垣間見たように思う。問題は野田氏の参議院議員の3選はどうなるのかという点だが、立憲民主党県連関係者は「八女市長に返り咲くことは、あくまでオプションとしてもっているだけで、本心は参議院でしょう」という。
野田氏の3選への挑戦は現実問題としてあり得るのか。次回はこれに関する関係者の証言などを取り上げていきたい。
(つづく)
【近藤 将勝】
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