【加藤縄文道1】NHKが報じる縄文人―歴史認識の転換(縄文道通信106号)
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(一社)縄文道研究所
代表理事 加藤 春一 氏NetIB-Newsでは、(一社)縄文道研究所の「縄文道通信」を掲載していく。
今回は第106号の記事を紹介する。最近放映されたNHK 番組の縄文文化関連報道要旨
1. ブラタモリ「世田谷区の探訪」
2023年12月2日(土) 総合 午後7時半~8時45分
<内容>
世田谷区は人口約97万。現在も増加傾向にある人気のある住宅地である。世田谷城址公園で、学芸員が縄文時代から縄文人が住んでいた、自然に恵まれた地域であったとコメントしていた。多摩川の支流が12あり、水と食料に恵まれた地域。現在、世田谷区には53個所の縄文遺跡、遺構、遺物が発掘されている。詳細は世田谷郷土資料館で見られる。富士山、箱根山、愛鷹山、浅間山、赤城山、榛名山、男体山の火山爆発で火山灰が堆積した地域に国分寺崖線ができた。2. 今も残る縄文DNAの謎
2023年12月6日(水) BS 午後9時から9時45分
<内容>
日本の古代史の歴史観、従来の常識を覆す動きがある。DNAの全体体系の解析―シーケンサーで全体像が解明され始めた。タイの森林地帯で暮らすパンタルンのアニ族が縄文人のカギを握る。周囲と接すことのない狩猟・採集生活者で言葉もまったく違う。肌はチョコレート色で芋を採取して食する民族。女性は芋を採集できて結婚できる。外部の人間は弓で殺す。ホアビニアン文化で縄文人と直結しているようだ。最初の日本人の正体が大きく変わった。アフリカから出発したホモサピエンスが北東アジアまできて、最初に日本列島に到着した。
松前 なるみ東海大学(集団DNA研究)
神澤 秀明研究員(日本科学博物館)シーケンサーで解明した結果、日本列島に到着した縄文人のDNA配列はモンゴル、中国南方、中国・北京とまったく違う。特殊で近縁性がまったくない。
篠田 謙一教授(国立科学博物館館長)縄文人は大陸とはまったく孤立した民族で、寒冷期(約20,000年前)から温暖期(約11,000年前)に移行するなかで、海面が約100m上昇し北海道、樺太津軽海峡、対馬海峡と海面が上がったことで交渉が途絶えた。約1万年以上、極めて独特な縄文文化による縄文土器、土偶などを制作し、300~500人の小集落での集団が形成された。東京居住者の1割、沖縄居住者の3割、アイヌ・北海道居住者の7割が縄文人のDNAを引き継いでいる。
山田 康治教授(国立歴史民俗博物館研究部)縄文人は筋肉強靭で臀部の張り方が逞しく、足腰が強い。縄文人は非常に特殊なDNA の保持者だ。タイのマニ族の祖先とみられるホアビニアンは男は芋も刈り、女は芋を掘っていた。
太田 博樹教授(東京大学)縄文人は狩猟、採集生活を繰り返し、同じ作業を継続して子孫に伝承していった。アフリカから人類が20~30万年前に出発して、西に向かったホモサピエンス(ヨーロッパ人)と東に向かったホモサピエンスは、さらにユーラシア大陸で北に向かう人類と南に向かう人類に分かれた。インドから東南アジアに向かった人類は4-5万年前に到着したと予測される。(インドシナ半島からカリマンタン諸島)東アジアには2-4万年前に到着したと予測される。
2018年にホアビニアンの遺伝子の解明がなされ、縄文人と近似していることが判明した。80項目の遺伝子でトップ4項目に位置していた。ホモサピエンスは約4万年前に東南アジアから海沿いに北上して、約3万8,000年前に日本列島に到着した。フロンテイアの縄文人は冒険心、好奇心の強い人種で、日本列島で独自の文化を形成することになった。
縄文人はDNAを引き継いで日本列島で独自の発展を遂げた
約1万6,000年前から紀元前3,000年近くまで縄文時代を形成した。初期に到着した縄文人の全人骨のゲノム解析を行った。
覚張 隆史教授(金沢大学)初期縄文人の人口集団は、約1,000人規模と推定される。現在、日本の人口は約1億2,700万人だが、縄文人DNA比率は東京近辺で1割が、沖縄で3割、北海道で7割となっている。2016年、徳之島で大発見があった。ウンブキ~浅間湾の約700mにわたって海底に縄文土器が発掘された。約9,000年前の縄文土器である。
木村 敦教授(東海大学水中考古学)2万年前は氷河期であった。北海道―樺太、津軽海峡、対馬海峡の海峡は狭く 渡りやすかった。ところが温暖化が約1万8,000年前ごろから進んで海面上昇が発生し、海面が100m以上上昇した。日本海は海となり、大陸との関係が遮断したことで、縄文人は孤立したことで、固有の縄文文化が発展した。徳之島の縄文遺跡は昔、陸にあった証拠である。
山田 康弘教授孤立した地理環境のなかで、独自の縄文文化を形成できた縄文人は、約1万年の間、狩猟、漁労、採集生活者として、日本列島のなかで、世界にどこにも存在しない、固有の世界に誇れる縄文文化を形成できた。この間、独自の複雑な精神文化も醸成できた。北海道の礼文島の船泊遺跡で、縄文人の女性の姿を復元した。背は小柄、肌の色は濃く、毛髪はちじれ、目は茶色である。縄文人の約30体の骨からDNA を検出した。約3,800年前の生活は、豊かな自然環境のなかで狩猟、漁労生活者としてオットセイ、うに、ホタテ、さまざまな魚を食べていた痕跡が判明している、血液型はA型で 飲酒の痕跡もあった。1998年に発見され2019年にDNA 解析で分かった。さらに礼文島で新潟県の糸魚川で採れた翡翠が発見され、装飾用に使用されていたことも判明している。
独自のDNA が形成された
モンゴル、中国、ベトナムとは近似しない孤立した縄文人と縄文文化が形成された。鳥取・青谷上寺遺跡で発掘された鉄製の道具、人骨は矢傷などの痕跡がある人骨がたくさん発掘されている。弥生時代に突入して多くの渡来人が北東アジアから移民してきた証拠で、渡来人は土着していた縄文人と混血していった。
従来の定説である、縄文人と弥生人の二重構造説の証である。ところが、今までの常識を覆すDNA の発見があった。古墳時代から大和朝廷ができるころまで、大陸の東南地域を始め、多くの渡来人が日本に押し寄せてきた。これが第3のDNAでこれら渡来人が二重構造に加わって 三重構造を形成した。現代日本人はこの三重構造の延長で、飛鳥時代以降継承されていった。
大量の渡来人は縄文人、弥生人と混血して同化し、日本人の原型を形成した。すなわち、3万8,000年前の南方からの初期縄文人が土着して第一構造を形成。弥生人が北東アジアから渡来して第二構造を形成。古墳時代に南東アジアから大挙して渡来人が押し寄せ第三構造を形成した新説であり、従来からの常識を覆すものだ。日本列島はたくさんのゲノムの集積地でもある。古墳時代の渡来人のDNA 研究は最も面白いと篠田謙一教授は強調していた。
(縄文道からの加藤の解釈)
1. 第一構造の縄文人が約1万4,000年にわたって、孤立した列島の地理関係のなかで、独自の縄文文化が形成された。世界に類のない、日本人の誇るべき、長期に継続した文化を基層に有した。
2. 縄文人と縄文文化が、出アフリカから北東アジアの列島までに到着する間、冒険心、好奇心、挑戦心、探求心が形成され、日本列島到着後、屋台骨となった。
3. 臀部、足腰の強靭さと、高度な技術獲得、複雑な精神性などが長期に継続した縄文文化のなかで形成され、その後の弥生、古墳時代の渡来人との混血でも、彼らを同化させ日本化していった。
4. この根柢の源流、基層、屋台骨が中国、ヨーロッパ、アメリカから外来文化が入っても、取捨選択して吸収、適応させ、日本独自の文化を形成してきたと確信する。
5. 現代の日本のリーダーに求められるのは縄文人が具備していた野生的挑戦心、冒険心、変革力である。なぜならば日本人は平均的に約12%の縄文人DNA を有しているからだ。縄文人DNA の覚醒が求められる。(了)
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