2024年11月24日( 日 )

てら岡会長・寺岡直彦氏「生涯現役宣言」

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(株)てら岡「新会長・社長就任記念パーティー」

 「日本料理てら岡」を運営する(株)てら岡は創業50年を迎えた今春、創業者の寺岡直彦氏が会長に、一番弟子の山隈敦司氏が後任の社長に就くことを発表した。包丁を握って65年、80歳の寺岡氏が依然として「生涯現役」を貫こうとしている。寺岡氏がこれまで社会貢献活動を含め飲食業の経営者の枠を超えて活動し、引き続き現役でいられるのには、同氏が自身の経験で学んだことを活かしてきたことによるものだろう。個人的なエピソードも交えつつ、寺岡氏の経験と学習について振り返りたい。

会長・社長二人代表制開始、記念パーティー開催

 ㈱てら岡(福岡市博多区)の「新会長・社長就任記念パーティー」が3月29日(金)午前11時より、ホテルオークラ福岡(福岡市博多区)にて華やかに開催され、約280人が参加した。パーティーの参加メンバーは新会長・寺岡直彦氏の真の友人・知人たちであった。

(株)てら岡「新会長・社長就任記念パーティー」    同氏は今年4月で80歳になる。ここを起点として新しい体制を敷いたのである。代表取締役社長には、30年にわたり、てら岡の料理人として腕を振るい、かつ専務として経営陣の中核を担ってきた山隈敦司氏が就任し、寺岡氏は代表取締役会長の座に就いた。パーティーの席上、寺岡氏からは終始一貫して「生涯現役貫徹」の雰囲気が漂っていた。

35歳で渡辺通、37歳で中洲に飲食ビルを取得

 寺岡氏の経歴を添付する。驚くべきは、1979年に弱冠35歳で福岡市中央区渡辺通5丁目の飲食ビルを確保し、さらに2年後の81年、37歳の時に福岡市博多区中洲5丁目に2店舗目の飲食ビルを構えたことである。

 テナントで店舗展開をするのは珍しいことではない。しかし不動産を購入して飲食店をオープンするのは稀有である。経歴の通り、寺岡氏は熊本県荒尾市育ち、一代の叩き上げだ。要するに飲食業界に話題を提供してきた第一人者だ。

荒尾市育成地に桜公園の建設

▲クリックで全文表示(PDF)

   寺岡氏は44年、中国東北部の鞍山市で生まれた。寺岡氏が強運だったのは、戦後、世の中が落ち着いたときに中国大陸から引き揚げることができたことである。ここにも寺岡氏の生命力の逞しさが垣間見える。その後、実父の故郷である熊本県荒尾市で育った。

 寺岡氏は若いころから読書家であった。寺岡氏といろいろと議論するなかで、多くの本を読んでいるであろうと深く実感させられた。また感性がすこぶる豊かである。加えて「善悪」の立場を明快にしての社会貢献活動にも熱心である。

 いつだっただろうか。「コダマさん。俺の育った荒尾市の丘に桜の公園を建設することにした」と打ち明けてくれた。そこで、筆者も現場視察に飛んだ。最初に延べ5万坪の土地を購入して寺岡氏および地元の協力者たちが公園建設に注力したのである(当時、寺岡氏は土日、現場へ飛んでいた)。筆者も夫婦で桜の木を寄贈させてもらった。

 寺岡氏はこのように社会貢献に取り組む寄贈者としては先発の部類に入っていたと思う。それよりも何よりも「公園建設によって、故郷に恩返しする」という発想は凡人には思いつかない。

向学心溢れる人生を極める

 また、寺岡氏は向学心に満ち溢れた人生を送ってきた。料理人として料理の道を極めるのは当然であるが、その技術の枠を超えて人格を陶冶すべく修練に励んできた。人間学を探求する致知出版社の藤尾秀昭氏とのめぐり逢いから、伝記作家の小島直記先生と知り合い、人間学について学ぶことになった。その溢れんばかりの向学心が人生におけるさまざまな師匠と呼べる人物との出会いに繋がったといえる。

 さまざまな出会いを経たうえでの、最大の出会いと呼べるのが、盛和塾の塾長をしていた故稲盛和夫氏とのめぐり逢いだろう。58歳から76歳まで「盛和塾で学びを受ける」という経験が大きな財産となった。このように一生涯、哲学と人間道を極めんと邁進し続けている経営者は稀有であろう。

学習の総決算たるコロナ禍での決断

 いろいろと思い出をたどってもキリがないが、寺岡氏の胆力を思い知らされるエピソードを以下に列挙する。

 コロナ禍に突入した序盤戦のことである。寺岡氏は筆者に驚くべきことを打ち明けた。「コロナ禍のなかで飲食店を経営するのは不可能だと思う。従って、事業の重点を工場生産力増強に置く」というのだ。本社の不動産は計算していた以上に高く売れた。「これで3年分の軍資金を得たからもう大丈夫だ」と安堵の表情を浮かべていた。このような大胆な戦略転換を行った飲食業の経営者にお目にかかったことはない。それまでの学習による効果が発揮されたものであったと思う(学習について、寺岡氏が自身の経歴において、【学び】として特記した項目を参照してほしい)。

学習の総決算とは?

(株)てら岡「新会長・社長就任記念パーティー」    第1に寺岡氏は数多くの伝記に接していくなかで「成功者の要諦」を学び、「成功、失敗の分岐点」を頭のなかに叩き込んできたことである。寺岡氏は先述したように読書家であり、青春時代から偉人の伝記を読むことを使命として没頭してきた。加えること、経営実践の過程でも「生きるか死ぬか」の分岐点に幾度も立たされ、そこで決断に迫られた。「普通の、並の判断であれば中途半端に終わる」ことを体で覚えてきたのである。

 「今回のコロナ禍は100年に1回あるかどうかの非常事態である。並の決断では生き残れない」と思案したのだ。そこで飲食店経営は中洲の1店舗に絞り込み、従業員の職場の確保に努めた。一方で、工場での食材生産ビジネスに重点を切り替える荒業を駆使した。経歴を見てわかる通り、36歳の時にてら岡食品工場を開業している。44年の実績があるのだ。思いつきで工場生産に飛びついたのではない。

 第2は師匠の教えを忠実に深掘りしたことである。師匠とは稲盛塾長のことである。稲盛氏からは「寺岡君、経営の方向転換を行う際には眠らずにトコトン考え抜け。そのうちにウトウトしてきて、夢にカラーが出る、虹が出る。その経験をすれば真になる」と教えられ、鍛えられた。

 寺岡氏によれば、今回のコロナ禍における経営戦略転換の模索過程で、本当に「カラー付きの夢」に遭遇したとか。何に遭遇したのか?それは「工場での生産はおせちに関するものだけに専念する」という解であった。結果として年間約15万件のおせち料理の注文が得られるようになった。「絞り込んで本当に良かった」と寺岡氏は結ぶ。

 このように寺岡氏の心底の想いを勝手ながら当人に成り代わって記述した。これで寺岡直彦氏の生涯現役を貫くことへの意気込みの強さを読者は理解されることであろう。

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